精神は肉体を凌駕するか このエントリーを含むはてなブックマーク

 これを一言で書く言葉があるのかないのか、ないとすればどう書くべきか、さっきから悩んでここのところ何度も書き直しをしているのだが、とにかく説明を試みる。SF、あるいはファンタジー小説やまんがの中で、肉体だけ残して精神が仮想世界で冒険をする、というようなモチーフがよくある。と書いてもよくわからないと思うが、ええい、ためしにひとつ書くのが一番早いかもしれない。

「これを?」
 とケイイチは疑わしそうに、手にしたヘルメットをひっくり返して見た。顔まですっぽりと覆う、FRP製の鉄仮面のようにも見えるそれは、何本もの太いケーブルで壁の装置につながっている。内側には電極がいくつも並び、LEDの光が明滅しているのが見えた。
「ええ。これをかぶれば、あなたの意識は『クエスト』の世界に飛ぶ」
 と説明をする柏崎博士の表情は、大きめのめがねの奥でうかがい知れない。ケイイチはケーブルの先、部屋に並んでいるサーバを眺めた。無数のブレードサーバ群が放つ騒音の中で、博士が語りかける言葉はしかし不思議にケイイチの耳に届く。
「『クエスト』世界はコンピュータで再現された、擬似的なものに過ぎない。でも仮想現実に没入して、キャラクターと同化したら、それはもう現実と同じ。『クエスト』で傷を負えば現実のあなたも何らかのダメージを受けるし、それにもしも……」
「もしも?」
 思わず訊き返したケイイチ。柏崎博士はこたえず、ただ白衣の肩越しにケイイチを振り返り、その唇に、笑みのようなものを浮かべて見せた。
「やめましょう。どちらにしても、リリコ。あなたの妹を助け出すには、そうするしかないんだから。『クエスト』から戻ってこれなくなった彼女を救うために、彼女を見つけて、連れ戻す人が必要なの」
 博士はそう言って、ケイイチの肩に手を置く。ケイイチは手の中のヘルメットと自分を覗き込む博士の顔を見比べた。数秒の間そのまま、その二つの間で逡巡しているように見えたが、やがて彼はこう言った。
「……わかりました」

 いや、もうちょっと他になにか方法ってあるはずでしょう博士、と訊きたくなる場面だと思うが、つまりこれだ。「これ」というのは、美人でめがねな博士のことではなく「精神がダメージを受けると肉体にも害が及ぶ」というアレである。仮想現実を扱う大抵の作品でルールとしてそういうことになっているのは、下世話なことを言えばこれが物語に緊張感をもたらすからだと思うが、「もっともらしいから」という理由もあるに違いない。「精神の死は肉体の死」である。「使い魔が傷つくと主人もダメージを受ける」という、いわゆる「スタンド」のルールもおそらくこのあたりに源流を持っていると思われる。

 と無責任なことを書いたが、しかし現実として、そういうことはあるのだろうか。精神が部分的にでも肉体を支配するというのは、物語上便利な仮定ではあるが、現実にその効果は果たしてあるのかということで、実を言うと、私は明け方の不安な眠りの中で、何度か「死ぬ夢」というものを見たことがある。ナニモノカに首を絞められ、息苦しくなって、視界が暗くなり、このまま意識が遠くなって、ああ死ぬのだなと思ったら目が覚めた、というもので、これが「クエスト」世界だったら私はヘルメットの中で冷たくなって博士に迷惑をかけるはずだ。

 さて、以上のようなことを長々と書いてきたのは理由がある。私の感覚なのだが、どうも精神が肉体を支配している気がして、悩ましいのだ。痛みと似たことかもしれないが、私の場合、ちくちくする。気のせいかもしれないのだが、ちくちくするのである。

 何がだろう。説明しよう。世の中にはグラスファイバーというものが存在する。吸引すると肺がんを引き起こすとして使用が禁止されているアスベスト(石綿)とどう違うのか、そこのところは今ひとつよくわからないが、使用が禁じられていないらしいのでいいのだろう。原理や用途は似たようなもので、細く引き伸ばしたガラスの繊維である。これを織ると熱に強い布が得られるので、ヒーターを包んだり、熱センサーを絶縁したりする用途に使われている。

 これが、ちくちくするのだ。仕事の上で、この手のなんとかファイバーで織った布を触る機会が妙に多いのだが、そうすると必ず、触ったあとで指先がちくちくするのである。

 考えてみる。これはファイバーなので、つまり細い糸である。布にするとけっこう柔軟性もあるが、もともとガラスでできた糸なのであって、表面には無数の針状のガラスがトゲトゲと突き出している。このトゲが私の指に突き刺さり、痛覚神経を刺激をして、そうして私は痛いいたいことになるのだ。そして、あまりにもその繊維片が小さいので、ちょっとやそっとぬぐったぐらいでは落ちないのである。というのはまったくの想像であるが、ありそうかなさそうかと言われると、ありそうな話ではないだろうか。

 まったく、本当はどうなのか。触った後、だいたい半日くらいは指先が痛くて、しびれたような感じが残る。手を石鹸で洗ったりしても状況は変らない。しびれは実際に触った指先だけでなく、広く指一帯やひどいときには隣の指や反対側の指まで波及して、そのあとキーボードを打つとしびれた指が痛い。理性は「いくらなんでもここまでの被害はありえない。幻覚だ」と告げているのだが、それはそれとしてこの痺れはどうしたことか。

 この感覚は、グラスファイバー以外のものに触ったときも起こる。カーボンファイバーレインフォースドプラスチックという、カタカナで書くとなんだかすごそうだが、要するによくあるカーボンファイバーの釣竿を折ったようなものに触れたとき。それから、掃除機の中にたまった埃に触れたり、窓の桟のところを指先でしゅっとこすって「あらリョウコさんずいぶんお掃除のお時間なかったんですわね?」みたいなことをしたあとも痛くなる。幻覚なのか、埃の中にある何かに私の体が敏感に反応しているのか、それは判然としないが、とにかくちくちくしてたまらないのだ。

 わからないが、どうやら現実の痛みではない、という気が最近している。というのも、明らかに自分がファイバーを触っていないとき、単に会社で席が斜向かいだというだけのヒトがグラスファイバーにおおわれたヒータを触っていたのを見ただけのことなのに、そのあと半日ちくちくしたことがあるからだ。かれが触ったファイバーのかけらがそのへんに落ちていて、という可能性は確かにあるが、道理に合わない。それだったら指先だけしびれる理由にはならない気がする。

「病は気から」という言葉があるのは確かである。ことわざに書いてあることが全部本当だったら今頃犬は歩くたびに棒に当たって大変なことになっているが、プラシーボ(偽薬)効果というものもあるので、気分によって体調が違ってくるというのは確かにある気がする。もっとも、二重盲検法で使うプラシーボの役割はともかく、治療の目的で積極的に使おうとしても、プラシーボには痛みを抑えるなど、わずかな例外を除き効果はほとんどない、という研究結果の記事も読んだことがある。

 とすればだが、つまりこれこそが例外、このちくちくした痛みはプラシーボ効果的なあれでもって、精神が肉体を支配し、私に偽の痛みを感じさせているのではないだろうか。わずかな効果なのかも知れないが、そのあと帰宅するくらいまで、ずーっと痛いので効果はかなり高い。不思議なのは「これは幻だろう」と思っていてなお痛いということで、これがプラシーボ的にどうなのか、よくわからないのだが。

 まとめよう。どんなにうまく『クエスト』世界をつくっても、ログインしたプレイヤーを死に至らしめるようなダメージはちょっと作れない気がする。ただ、そのあと半日くらいケイイチの指先がちくちくするくらいのものなら、柏崎博士がその気になれば容易に作れるような気がするのである。考えてみるとこれはこれでかなりイヤだが、現実に横たわっている、ありうる仮想現実の未来なのではないかと思う。柏崎博士には気をつけたほうがよい。


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