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 私には息子がいる。二人いるうちの長男の方で、この子は昔「ジョン平とぼくと」のジョン平の(性格の)モデルになった男だが、この、現在小学一年生の長男の話である。どうも人格に妙な味のある男で、なにか楽しい人生を送りそうな感じがして期待をしているのだが、この子が、よく「なんで」と言う。

 どういうことか。小学一年生が「なんで」と質問するのは当然のことで、それに答えるのは親の義務ではないか、とあなたは言うかもしれない。そうなのだが、でもって私は人一倍他人になにかを説明するのが好きな人間なので、できる限り根気よく丁寧に説明しているつもりなのだが、そうではなくて、この男に関して言うと、なんとなく妙なタイミングでこの「なんで」を言うのである。

 たとえば、こういう話をしている。
「あのさ、お父さん電話を換えたら『おサイフケイタイ』になったから、定期もこっちでやることにしたんだ。もとのスイカは、それはそれで、別に使うこともあるから、サイフの中にとっておくことにしたんだ」
 と、この息子が、
「なんで?」
 と言うのである。さあどう答えるか。あなただったらどうするか。会話の流れとして、
「いらなくなったけど、スイカのほうもとっとくんだ」
「なんで?」
 だったら説明のしようもある。
「どうしてかというと、別に使うこともあるからさ」
 とかなんとか言えばよい。しかし、実際にはそういう説明はしたあとで、自分としてはもう過不足なく説明してもうこれ以上特に説明はない、と思っているのである。
「いや、なんでって、だからケイタイに定期を入れたんだけど、それとは別にスイカはスイカで使うこともあるから」
 とか、同じことをもう一回別の言葉で繰り返すくらいのことしか、できないではないか。実際、たいていの場合そうやって繰り返して説明しているのだが、どうも腑に落ちないものを感じる。

 こういうのもある。
「ねー。お父さんのあのオレンジいろのパソコン、なんていうなまえ?」
「ああ、あれは『ポメラ』って言うんだよ。本当はパソコンじゃないんだけどね」
「なんで?」
 困るのである。この場合「なんで」の答えはなにもない。ポメラという名前にはいちおう理由があるらしいが、それを訊かれているのではないだろうし、パソコンじゃない、というのにも理由らしい理由はない。
「キーボードを備えた、コンピューターには違いないが、これに関して言えばメモを書く単機能に特化した製品であり、パソコンのような汎用性がない。だからパソコンには分類されない」
 というような説明ができないことはないが、どうもそういうことでもなかろうと思うのである。
「なんでって、あれでゲームはできないだろ? できたらお父さん大変だけどね」
 とか、もごもごとごまかすしかない。たいへん駄目なお父さんである。敗北感を感じる。

 気になりだすと、確かにこの子は「なんで」と言い過ぎである。私がぺらぺらと、ずいぶん長い話をして、終わった瞬間に、
「なんで?」
 と訊き返してくる。なんでと言われても、すでに理由は説明したあとか、もしくは「この食卓にあるオレンジ色の食べ物はなぜ柿なのか」というような、まったく答えようのない「なんで」であり、そもそもなんだかいつも損をした気がする。いや、損得ではないのだ。べつに損得でもって子育てをしているのではなく、それを言えば子育てなどは損ばっかりであってしなければしないに越したことはないのではないかと思うこともあるが、私の長々とした話と、「なんで?」という言葉と、そのあとのまた長々とした説明が、ぜんぜんバランスが取れていないのではないかと思うのである。

 昔、新井素子さんだったか誰だったかが、アンケートに回答するにあたって、「◯◯についてどう思いますか」とか「あなたにとって◯◯とは何ですか」というのが困る、というようなことを書いていたと思う。これも、質問するほうは簡単だが答えるほうはいろいろ考えないといけなくて大変だ、なんだか割に合わない、というようなことだったが、私も同じことを思う。
「あなたにとって『萌え』とは何ですか」
 と訊かれると、わあ困ったと思う。どう答えたらいい感じなのか。まじめに語るのかボケたほうがいいのか。考えて文章構成を考えて推敲して答えにする。この手間と、「萌えについて訊こうそうしよう」と質問を考える手間は、確かに非対称がある。これに比べて、
「民主党の小沢一郎さんの政治資金問題で、検察審査会が起訴すべきだとの議決を2回したことにより、小沢さんは強制的に起訴されることになりました。小沢さんは、民主党を離党するなどのけじめをつけるべきだと思いますか。その必要はないと思いますか」
 みたいな質問に「はい」「いいえ」「わからない」で答えるのは、何か爽快感を感じるものがある。一生懸命言葉を選んで質問を考えたのだろうが、答えるほうはぱくっと答えたらおしまいである。申し訳ない気がしてくる。ごめんなさい。

 話がそれたが、要するに私が息子に感じているのもこれ、言葉数の非対称性なのだと思う。私はずいぶん考えて、言葉を選んで、子供にもわかるように説明したつもりなのに、どうしてきみは「なんで?」だけなのかと。わからないのはしかたがない、説明が悪いのかもしれない。しかしせめて、どこがどう「なんで?」なのか、今の話のどこに「なんで?」を感じたのか、きみには説明する義務があるのではないか、そうじゃないと丸損ではないか、と、またしても子育ては損得ではないにもかかわらず、そんなことを思うのである。

 あるとき私は、ついに怒った。「長い説明」→「なんで?」→「長い説明」→「なんで?」→「長い説明」→「なんで?」と三回ほどコンボを決められて、さすがにこれはちょっとなんとか言ったほうがよい、と思ったのである。そうでないとなんと言うか疲れる。
「あのさ、きみ」
「なにー?」
「きみね。よく『なんで』『なんで』って訊いてくるけど、お父さんとしてはできるだけ丁寧に説明したげたいと思ってるけど、でも、すでに理由を説明したところで『なんで』って訊かれるとがっかりするというか、答えようがないんだな。それともあれか。きみの『なんで』は『もっとくわしく説明して』の意味なのか?」
 またしても言葉数に非対称性があるような気がするが、つまりそれだけなんとかしたい、と思う気持ちが強いわけである。
「うん」
 と息子は言った。
「そう、そういうこと」
 かれは深くうなずいた。そうなのだ。要するにそれが言いたかったのであると。私は思わず正鵠を射てしまったことに自分でも少し驚きながら、
「そうか。わかった。じゃあこれからは『なんで』って訊くのをやめて『どこそこがわからなかったから、もうちょっと詳しく説明して』って言ってくれな」
 と優しく言った。こうやって、少しずつ子供の語彙を増やしていって、いつかどこかの駅で「上野行きは強風のため電車が遅れています」「なんで?」というような会話が発生することを防げたらそれは親として義務を果たしたことになるのではないか、と思いながら。

 かれは、満足感に浸っている私の前で、しばらく考えて、こう言った。
「あのねお父さん」
「なに?」
「これからぼくが言う『なんで』は『もうちょっとくわしくせつめいして』のいみだからね?」


 文中「民主党の小沢一郎さんの政治資金問題で、検察審査会が起訴すべきだとの議決を2回したことにより、小沢さんは強制的に起訴されることになりました。小沢さんは、民主党を離党するなどのけじめをつけるべきだと思いますか。その必要はないと思いますか」は、2010年10月に朝日新聞とABCが行なった世論調査の質問です。


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