視聴者が百人の村だったら このエントリーを含むはてなブックマーク

 テレビや新聞、そういえば出版社もそうだが、不特定多数を相手にするいわゆるマスメディアにとって、もっとも商売がうまくゆきやすい、生まれ変わったらオレそういうところに住むんだ、という世界を考えると、それは、
「みんなが同じものを好きである世界」
 であると言える。「みんなが好きなもの」は何でもよいし、大衆はそれなりに移り気でも構わない。ただ、ある一時期に関しては、できるだけたくさんの人が、同じものを好きであるような世界がよい。

 説明しよう。たとえば人口が百人の村があったとする。この村には一つのテレビ局があって、その局は、村のできるだけたくさんの人にテレビを見てほしいと思っている。いま地上波の民放テレビ局はそういうシステムではないが、ここで仮に、このテレビ局は「見ていた人の人数に比例した収入が得られるシステム」を採用しているとする(ペイパービューの有料チャンネルがそうである)。視聴者(候補)の百人の好みが、あるとき次のようであったとしよう。
 野球が好きな人……70人
 サッカーが好きな人……20人
 その他のスポーツが好きな人……10人
 こんなふうであれば、これはもう簡単で、テレビ局はひたすら野球を流していればよい。まあときどきは、野球の試合がないときなんかは、サッカーを流してもいいかもしれないが、野球の試合があるときにサッカーを流すわけがない。局が明確に損をするからだ。まして、他のスポーツの話題は基本的に取り上げない。

 ただ、残念なことにおそらくはこういう状態は本質的に不安定である。特に、科学が発達し、文化が花開き、情報通信システムが発達するにつれて、この情報の寡占状態はあっというまに崩壊すると思われる。現に今の日本人という集団は、たぶんよその国でもそうだと思うが「人口の70パーセントが愛するスポーツ」「人口の70パーセントが好きな国民的アイドル」「70パーセントの人が一度食べたいと思っている絶品スイーツ」みたいなものは存在しない。それぞれの人の情報の取り入れ口が増え、本棚が広がり、遠くまで覗き込めるようになり、各自、自分が暮らしやすい、しっくりくる小さな社会に住むようになってゆくに連れて、人々はひたすらたくさんの、細分化された好みを持つようになってゆく。インターネットが人々をこのようにした、という考え方もあると思うが、情報の流れをよくすること、人々により多くの選択肢を用意することが成熟した社会の特徴であるとすれば、こうなることは歴史の自然な流れである、と考えることもできると思う。

 しかしその結果、この百人の村においても、
 野球が好きな人……22人
 サッカーが好きな人……18人
 ゴルフが好きな人……12人
 モータースポーツが好きな人……8人
 ラグビーが好きな人……7人
 バレーボールが好きな人……5人
 その他、答えない……28人
 などということになっており、テレビ局はすっかり悩んでいる。何を流しても視聴率が取れないのだ。かつてそうだったように「これさえ流せば視聴率70%鉄板」という番組は、もうどこにもない。野球はもうダメか、じゃあサッカー。いやゴルフ、とあれこれ試行錯誤してみても、事態はさらに悪化する。番組がつまらなくなったわけではない。個々のスポーツから面白さが失われたわけでもない。ただ、人々がより多様な選択肢を与えられ、多様な選択をする、その結果として、視聴率は下がり、テレビ局はもとのような利益を得られなくなるのである。

 まとめるとこうである。文明が進歩するとテレビ局は衰退する。

 しかしそういう「どうせ人生ってこうじゃない?」みたいな話をしていても、憂さは晴れるがご飯は食べられない。だったらどうすればいいか、マスメディアにはそもそも未来はないのか。それに答えを与える能力は私にはないけれども、ただ、
・条件1:野球70%/サッカー20%
 の状態において、あえてサッカーを放送することによる逸失利益と、
・条件2:野球22%/サッカー18%
 の状態で同じことをしてこうむる損では、後者のほうがずっとゆるやかであるのは確かでである。何を言っているかというと、条件1ではサッカーを流すと50%ぶん損をするが、条件2ではサッカーを流しても4%ぶんしか損をしないのである。つまりこれは同じマスメディアが、時代が下るにつれて「何を流してもよい」という状態に近づいてゆくということである。みすみす人気番組を流さないことによる損は、だんだん、それほど大きなものではなくなってゆく。どうせどれもそんなに人気はないのだ。

 また「どうせ」とか言ったが、この結論はそれなりに重大である。
1)比較的一様な好みを持つ集団に対して、他の好みを「推す」のは相当勇気が要るが、
2)多様な好みを持つ集団に対して、ナンバーワンではない好みを「推す」のはそれほどの勇気がいらない。
 ということである。最近テレビがわりと好き放題、みんなが見たいものというよりは自分が流したいものを流している感じがするのは、このせいかもしれない。

 ただその一方で、情報通信技術の発達はもう一つ異なる方向への影響をマスメディアに対して与える。つまり、
「誰でも情報を発信できるようになる」
 ということで、これは通常よいことであるが、マスメディアにとってはこれは別の言葉で言い換えることができる。つまり、
「内容に文句が言いやすくなる」
 ということである。そういえばこのサイト(大西科学)自体、マスメディアでもないくせにマスメディアに文句を言っている、筆者オレ編集オレ責任者オレのプチメディアである。このサイトだって嘘を書いたらそれなりに注意を受ける(こともある)わけだが、マスメディアは私のような雑魚、雑兵、雑文書きではない。地上波のキー局ともなると、ちょうど戦場における総大将の立場にいると考えられるのだ。あなたが戦場に足軽の一人として参戦しているとして、ここらでいっちょう武者働きをして一旗揚げようと思っているとする。誰でもいいから一人対戦相手を見つけられるとしたらどうするか。よその足軽か。そんなことはしない総大将に突きかけてゆくのであって、だからしてマスメディアは総ツッコミを入れられる立場にいるのだ。現実には視聴者は百人どころか一億人くらいいるのであって、それはもう気の毒なほど喧嘩を売られる。私だったらとてもやっていられないが、テレビだからおもしろいお笑いの人やかっこいい俳優さん、きれいな女優さんや女子アナウンサーの人に会えるから平気なのだろうか。そうかもしれない。

 さておくとして、これはつまりマスコミというものは時代が下るに連れて余計に「ちょっと悪いことをするとすぐ怒られる」「細かいところまでシウトメ的なツッコミが入る」ということである。これは上のような「この際視聴率なんて大差ないから好きな物を好きなように流す」という、ある意味破滅的な行動原理に対しての一種のブレーキとして働けば都合がよいと思うが、世の中、そうそう二つの相反する力がバランスするようにはできていない。

 たとえば。テレビのコマーシャルにときどき「CM上の演出です」と字幕が入るときがある。こういうのは昔はなかったので、たぶんインターネットがテレビにもたらしたもの(のうちつまらないものの一つ)であろう。要するに「見ている人が真似をしたら危ないこと」「現実にはあり得ないのだが、もしかしてちょっとあるかもしれないと勘違いしそうなこと」あるいは「法律に明確に違反していること」を流すにあたって、そのまま流すとうるさく文句を言う人がいてそれは嬉しくないので、あらかじめこれを牽制する意味で「CM上の演出です」という字幕が出るのだと思う。

 しかし、これを「真似をしないでください」とか「嘘です」とか「法律に違反していますが放っといてください」とか書かないで「CM上の演出です」と書くというのは、一種の韜晦である。ごまかしである。いちいち「フィクションですよ」と断ったりしたら興ざめなのでこういう表現が編み出された、その気持ちは心からよくわかるが、CMであることはみんな知っているので「CM上の演出です」では何のことかわからないというのもまた確かである。「知ってるよだってCMじゃん。CMで流れるものがCM上の演出じゃなくて何なのさ」と言われると返す言葉がない。

 そもそもテレビ自体、このような総大将扱いされる前の気楽な時代には、虚実取り混ぜたメディアであったと言える。ある種の番組は、その最初か終わりに、
「このドラマはフィクションであり実在の人物組織とは一切関係ありません」
 とか、
「スピリチュアルは毎日をよりよく生きるためのヒントです。生まれ変わりに科学的根拠はありません」
 みたいなことを言って難を逃れているわけで、これで済んでいるというのは結局「昔からそんな感じだったから今もそうなっている」ということに過ぎない。もし番組の方もCMと同じくらい注意書きが必要ですということになればどうか。ドラマの中でヒロインが、
「雄一!あんたって最低の人間ね!」
 と叫ぶたびに、
「『雄一』はフィクション上の登場人物であり実在の人物とは関係ありません」
 と字幕が出ねばならない。あるいはバラエティの出演者が、
「あなたの前世は、4世紀のローマの貴族です」
 と告げるたびに、
「4世紀のローマ云々は毎日をよりよく生きるためのヒントであり、科学的根拠はありません」
 という字幕が必要になる。実際にそんなことにはならないと思うが、本来はっきりと「CMである」と判断できて、フィクションを流す上での束縛から自由であるべきCMがこせこせと字幕を出す必要があり、一方で番組のほうにはニュースのような「冗談抜きで本当のことを伝えるべきもの」も混ざっているにも関わらず最初と最後だけちょっと断ったら済むというのは明らかに間違っている。逆であるべきだと思うのである。

 もちろんCMにもいろいろある。うちのCMは真実だけで構成されております。ですからしてCMはフィクションです、などと言われると迷惑します、というスポンサー企業もあるかと思う。しかし、そんなことを言えばドラマにだって実在の人物やら組織が出てくることもあるし(たとえば日本とか、政府とか、南極とか)、スピリチュアルのどういう部分が人生をよりよく生きるためのヒントになっているのかと首を傾げるひともいるのであり、CMにだってまとめて字幕を出してよくないわけはない。

 商業放送にとって、時間は金である。もっと言えば時間×視聴率が金である。そのような一銭にもならないし視聴率も取れなさそうなメッセージを放映する時間はない、と言われるかもしれない。しかしそういえば、ちょうど番組の最初と最後に「この番組はごらんのスポンサーでお送りいたします」という部分があるわけで、そこに入れることにすれば、少なくともめまぐるしいCMの中でちょこっと字幕を入れるよりは、誠実な態度と言えるのではないか。いわく、
「この番組の途中にCMが入ります。CMは、番組ではなくスポンサーが皆様に商品やサービスをご利用いただくために、これらの情報を視聴者の皆様にお知らせするものです。そのため、一部目を引くための演出や、一般常識に照らして誤認を引き起こさない程度の誇張を行なっていることがあります。無料放送のシステムをご理解の上、ご了承いただきますようお願いいたします」
 どうだろう。これを流しておけば、もうCMでは嘘を流してもいい。いやそれは言い過ぎだが、ある程度やんちゃなことだってやり放題になるし、そのほうがよっぽど面白いCMができて視聴者のためにもなる。いちいちスポンサーが気を使って「CM上の演出です」だとか「個人の感想です」「個人差があります」などと書かなくて済むのだ。どんなに気持ちがよいか知れない。

 私のようなテレビっ子には悲しいことだが、これから将来を見渡したとき、テレビの未来は正直あまり明るくない。百人どころではない視聴者から手痛い批判を受ける上に、スポンサーが少なくてその広告費も減少して、ゴールデンのバラエティなのに、セットが一部破損したまま撮影しているところを見かけたりすると、どうしたらいいのかと思う(まったく、あれはどうしてああなのだろう。直せばいいのに)。しかしだからこそ、そうした冬の時代だからこそ、テレビ側には少しでも気持ちよくCMを見ることができる、いっそうの工夫が必要なのではないかと私は思うのである。ぜひやるべきである。

(※雑文上の演出です。効果を保証するものではありません)。


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