勉強は何の役に立つのか

「学校の勉強には何の価値があるのか」「学校の勉強は社会に出て役に立つのか」という話は、定期的に出てくる。なあに、今の若い者にはわからないかもしれないが、わしはなにしろ一九九八年からずっとここで見ておったから、間違いない。わしがここにホームページを開いたのは、そう、まだ二○世紀だったころの話じゃ。

 昔話が始まったりはしない。とにかく、人はやりたくない仕事に出会うと「これは何の意味があるのか」「頭が痛いし熱もあるがしないといけないか」と考えはじめるものであって、これは母なる大自然が私たちに与えた本能である。うちの子もご飯となると、ハンバーグやらトリカラやらをまずきれいに食べてしまい、しかるがのちに「もやし炒めというのは食べないといけないものか。飾りではないのか。どういう栄養があるのか」とか「歯が痛いし口内炎ができているがこれは食べなければ駄目か」という、質問が始まる。お前さっきまで肉食うてる時は何にも言うてなかったやんけ。ええから食べろ。ていうか腹減ってるうちに食べにくいもんから食べろ。

 そもそも、学校の勉強というのは、ドラクエで言うと「こんぼう」だの「ギラ」のようなものである。これらの武器なり呪文が竜王を倒すのに役に立つのか。そんなことはない。まだ小学校で習う「九九」や「ひらがなの読み方」のほうが、冒険終盤までずーっと役立つだけマシである。「こんぼう」や「ギラ」はせいぜいゲーム序盤を有利に進めるためのアイテムなり呪文であり、ないならないで、なくてもまあなんとかなるのだ。だいたい得てしてボス戦では攻撃魔法はあんまり効かないのであって、すると「社会に出たら学校の勉強は」理論によればそもそも攻撃魔法なんか要らないんじゃねと普通思うが、ゲームをしながら「魔法なんて何の役に立つんでしょうか」「回復魔法以外要らないんじゃないでしょうか」と悩む人はあまりいない。これは勉強は楽しくないがゲームは楽しいからである。

 というわけで、この手の質問にはあまりまじめに取り合うべきものではない、というのが私の立場であり、質問にいくら真摯に答えても、本音が「勉強はしたくない。楽しいことばっかりやって遊んで暮らしたい」である以上、回答者の誠意が質問者の役に立つわけではないからである。よく考えてみると、本当に真剣に悩んでいる質問者は「勉強は人生の役に立つか」ではなく「私の進路に即して考えると、どのような勉強が特に有用か」と訊ねるはずであり、一か八か「役には立たないから勉強なんかしなくてよい」とか、「もやしなんか食べなくてよい。今日はもういいからごちそうさましなさい」などという答えを期待しているだけなのだ。なに隠したってわかる。わしはなにしろ。

 自慢話は始まらないが、さてここでひとつ面白い特性がある。学校の勉強は何の役に立つか、特に二次方程式の解の公式はどういう役に立つか、などと訊かれ、正面から答えるのはなかなか難しい問題の一つだと思うが、これについて「必要だったはずの場面を、知らないと見逃してしまってわからない」ということは確かにあると思うのだ。

 たとえば、消費生活上のリスクがさまざまある。ある食品に含まれている成分が、ある確率で病気を引き起こすリスクがあるとする。あるとき、そういう報道があってこれがクローズアップされたとして、ではそのリスクがどの程度のものか。ちょっとした数学と、あとはさまざまな数字の意味を理解していれば、ここは自分で計算して「これは確かに避けた方がよい」とか「これはメディアが騒ぐほどの問題ではない。無視してよい」などと納得することができる。これは「数学が実生活に役立った」類の問題であるが、もしもここで数字に暗いとどうなるか。「ああ、もっと勉強すればよかった」「理屈をこね回して数学はいらないと納得する暇に本の一冊でも読めばよかった」と思うだろうか。そんなことはないのであって、単に「わあ怖い。もう絶対あれは食べない」と思うだけである。

 これはつまり「だまされた人がだまされたことに気がつかない」類の問題である。何かに気づかない人は、定義として気づかないことにも気づかない。ドラマの中に過去の作品をふまえた台詞があったときのようなもので、誰か知っている人に教えてもらわない限り、それはそれとして人生を生きてゆくことができる。ドラマの小ネタと異なるのは、それで自分と社会がじんわり不利益を受けること、それくらいのものである。このあたりが、もしかしたら「フルマラソンを走れたらどういういいことがあるの?」「強力な攻撃魔法はどんな役に立つの?」等と決定的に違うところなのではないか。あとから考えて、勉強した人は「勉強してよかったなあ」と思うし、しなかった人は「どうだい、しなくても普通に暮らせた」と思う。そういうものなのではないか。

 考えてみれば、世界は常にわれわれをだまそうとしている。たとえあちらにだますつもりはないとしても、何百万年も森の中をさまよいながらせいぜい百人くらいの小さな集団とのかかわり合いで暮らしてきた私たち人類は、基本的に世界を誤解しやすくできている。目先の小さなリスクを大きく見積もって大きく避け、一方で巨大なリスクを侮って痛い目にあう。そうして世界に不幸を生み出し、資源を無駄遣いしている、たいへん愚かでだまされやすい存在である。そうならないために、科学はそうした誤解に対抗するただ一つの手段なのだ。科学は道具としてもけっこう異形の道具であり、見ただけでは使い方役立て方さえわからないのだ。

 おそらくこれは、科学が変なのでも、私たちがおかしいのでもない。ただこの世界と私たちがあまりに異なった存在で、私たちから見れば世界は変なところで、世界から見たら私たちが少し妙なのだろう。私たちが世界を理解するために生み出した数学なり科学は、どちらかといえば私たちからずっと「世界」寄りの存在で、そこへ分け入る道を歩いていても、どこへ向かっているのかもよくわからないものである。あとで山頂から(あるいは山頂に至る小さな展望台から)眺めてはじめてそれとわかることも多いのではないか。そしてその奇妙な道を、王道なんかない険しい道を、とにかく前に進めと、ええからもうちょっと進めと言ってもらえる、学校教育はもしかしてとても大切なものではないかと思うのだ。本当に役立たないのも、ちょっとあるけどね。


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