がまんでホイ

 私には子供が三人いるわけだが、その三人を育てていて、もっともつらいのは「数に限りがあるものを取り合う姿」である。「1つしかないおもちゃ」とか「1つしかない食べ物」とかは、まあ、最悪でもお金次第でなんとかなるわけだが「順番を取り合う」などはもう、どうしようもない。特に「自動車の座席を取り合ってけんかする」のごとき、必ずどちらか一人が得をしてどちらかが損をする冷酷なゼロサムゲームであり、横で見ていて、親として裁判権を発動させてなんとかしようと考えても、ちょっとどうにも解決しようがない問題がやはりある。四角い仁鶴さんでもちょっと丸くおさめようがないのではないかと思う。

 もちろん、子供たちのもめごとをすべて、わざわざ親が出て行ったところで、すべて解決することなどできないし、またすべきでもない。放っておけば自動的になんらかの状態に落ち着くのであり、そうまるまで座視しておればそれでよいし、むしろそれが教育というものだが、それは実は、私があまりうれしくというか、むしろはっきり不快なのだという、これは告白である。なぜなのかわからないが、そういう「自分の子供同士が、一つしかない、分ちようがない物を争っている」のを見ること自体、とても辛い。余裕がないのかもしれない。あるいは、ある意味で私はそれぞれの子供の一部であるかのように感じ考えており、自分の一部に我慢を強いること、そういう状況に陥ることが嫌なのかもしれない。

 嫌なので、いろいろ考えたのだが、あるとき、こういうのはどうだろう、と考えたことを子供たちに相談したことがある。うちの場合、とくに姉をのぞいた下の二人、兄弟がよくこの手の争いをするのだが、どちらも譲れないそんな事柄について、ちょっとしたゲームを行い、問題をまあるく解決するというアイデアである。

 いつものようにいつものごとく兄弟で利害が衝突したとする。上で書いた「自動車の前の席に座るのがどちらか」とか「母親の部屋で寝るのがどちらか」というような、半分こもできないし、話し合っても解決しないことで争った場合だが、このとき、それぞれが「今争っているこれが、どの程度譲れないか」について考える。譲れないといっても、なんらかの「度合い」はそこにあるはずである。いつもいつも「ぜったい譲れない。譲ったら二度と太陽の下、胸を張って歩けない」みたいなあれではないはずで、この譲れなさに、たとえば1から5の数値を与えるとよいだろう。1は「まあ、権利が手に入ればうれしいが、がまんできる」、5は「絶対に我慢できない。これを譲るくらいなら、あれだ。譲るくらいなら、ええと、たいへんいやだ」というようなあれである。

 あればっかりでなんだかわからないが、とにかくなんらか、ここで数値を決める。決めたら、二人でじゃんけんをするように、このように唱える。
「さいしょはゼロ」
 何のことはなく二人でさいしょはグーを出すのであるが、これでタイミングを整えて、
「がまんでホイ」
 で、さきほどの数値を指で作って出す。それぞれの「がまんできなさ」を数値化したものを、比較するわけである。それでどうなるかというと、数字が大きいほうが勝つ。たとえば兄が「3」を出し、弟が「4」を出した場合、兄は弟に席を譲ることになる。弟くん、自動車の前の座席をゲットだ。

 それでは常に「5」を出すではないか、とあなたは言うかもしれない。その通りなのだが、ここで「我慢したほう(少ない数字を出したほう)」に、そのポイントを与える。この例では「3」を出し、我慢した兄に3ポイントを与える。このポイントは加算され、一定ポイントためるとなにかすてきなご褒美と交換できるようにする。そういうシステムを構築するのだ。
 つまり、兄弟はそれぞれ、争っているその座をもらえるか、かわりにポイントをもらえる。もらえるポイント数を必要以上に欲張ると、ポイントではなく単に座がもらえ、反対にポイント数を控えめにすると座は決してもらえないし、ポイントがこつこつとしかたまらないという、そういう戦略的要素がある。たいへん適当だがこれを私は「がまんでホイ」と名付けた。ベタベタで申し訳ない。

 このゲームは、何らかの元ネタがあり、そこで百万回もテストプレイされてバランスがとってあるたぐいのものではない。私がその場の思いつきでいいかげんに考えたもので、だからしてこれでゲームとして成立するのかよくわからない。ちょっと考えただけで「ふたりで示し合わせポイントを最大化する」とか「たいしたことないもの(たとえばそっちの食パンかこっちの食パンかなど、本来争う必要がないもの)までがまんでホイをやって無理にポイントをためる」とか、まずそういうカルテルに対して弱い。また、どのくらいのペースでポイントがたまり、いくつ集めるとどういういいことがあるのかなど、調整可能だが重要なパラメータがある。うちではいちおう「五十ポイントためるとイーマのど飴を一パック買ってやる」ということにした。なんだか不思議にうちの子はこの硬い飴が好きなのだが、このご褒美加減がいいのかどうか、兄弟にもそう正直に言って、随時調整するということにした。

 それにしてもイーマのど飴は、ドラえもんに出てくる「未来のお菓子」に似ているなあ、作った人もドラえもん読んでいたのかなあ、と思ったりしたがそれは本筋ではない。結果としてどうなったかというと、あまりうまくいかなかった。だいたい次のような欠点があるらしい。
(1)どちらかが常に1を出すようになる。相手にゆずって1ポイント稼ぐほうがよい、と判断するらしい。結局、席順の争いというのはその程度のものなのかもしれない。
(2)1から5のポイントは適切ではない。あいこ(両方2を出すとか)の場合は手を変えてもう一度あいこでホイをやる、と仮に決めたが、4から5、3から4の違いが今ひとつ感覚的ではないし、また最低の1に比べ最高の4ポイント(5ポイントはもらえないから)が低すぎるようである。我慢できない度合いは対数目盛りにするべきなのかもしれない。
(3)ポイントは意外に覚えていられない。随時壁に貼ったカレンダーに記入することにしたが、数時間経って家に帰った頃には、どちらが何ポイントもらえたのか、忘れてしまう。
 そんなこんなで、なんとなく数日で自然消滅してしまい、私はイーマのど飴を買わずに済んでしまった。あれは妙に単価が高いので、ちょうどよかった。気がする。

 ということで話は終わりなのだが、思いついた当初、がまんでホイはたいへんいいアイデアで、将来はうちの子から小学校に、やがては県から東京へと広がってゆき、あるいは国会を通じてがまんでホイ法が施行されたのち、国際社会へと広がりを見せて、領土を争う場などでも両国の首脳ががまんでホイをして帰趨を決める、などということにならないかと思っていたので残念である。その場合、ポイントをためるとどこか、国連のような組織がイーマのど飴を買ってくれる。イーマのど飴は、口に入れてもすぐには噛み砕けないので、口に入れておけば言い争いにはなりにくい。未来のお菓子の座にふさわしいと、私は思う。


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