規模にあらがえ

 パソコンやスマホの変換辞書を考えている人は、ある意味で日本のネットを支配している。よく「日本を裏から支配している」などという表現があるが、本当に裏から支配するとはこういうことなのではないか。各社の日本語スタッフがそんなに何百人もいるわけではないと思うのだが、何を変換し、何を変換しないかの辞書編纂について決定権があるのは相当強いものである。何を新たにユーザー辞書に加えるかの権限はユーザーにあるが、ある変換をしないように設定することは(システムによりバージョンによりだが)普通はない。しかし、思考というものはわりと、かな漢字変換に支配されていることはないか。

 たとえば「茨城」。これは県名であるが、県の公式見解としてこの読みは「いばらき」である。公式見解として「いばらぎ」は違う。そう言ってはいけないわけである。しかしどうだろう。なんとなく数多くたくさんの人によって今日もまたこの県名は「いばらぎ」と呼ばれているのではないか。そこで思うわけだが、このことを本当にどうしても普及させたかったら、マイクロソフトやアップルやグーグルに文句を言うといいのではないだろうか。これらの機器に搭載された日本語変換プログラムが「いばらぎ」でも諾々と「茨城」と変換して出している限り、人々の意識が変わることはない。「いば」で予測変換などさせず、きちっと「いばらき」と書いた場合だけ正しく茨城が出る。そのようにする。さらに言えば、間違って「いばらぎ」と書いたら「いばら『き』だっぺ、このごじゃっぺが!」と茨城県民の声が出てくるようにしてもらう。そんなふうに、今からでも県はIT大手と交渉するべきであり、むりですか。そうですか。すみません。

 しかしまあ、そんなこともこんなこともやろうと思えばできてしまうのが変換辞書管理者の権力の強さであろうと思うわけである。さてサイゼリヤの話である。イタリアンのファミリーレストランチェーンであるサイゼリヤは、無理もないことであるが、サイゼリアと間違えられることが多い。これもよく考えてみると、もとはといえば「サイゼリアでもカタカナに変換してくれる」という日本語変換の懐の深さ(ガバっと広い)のせいではないかと思う。もしも日本語変換プログラムの辞書編纂者に人の心があるのなら、なぜ「さいぜりあ」でもカタカナに一発変換するのか。おかしいではないか。ただ、これに関しては、最近のサイゼリヤ側の公式見解として「たしかにサイゼリヤだが、サイゼリアでもべつによい」との表明があり、この問題は終息を見た。私は間違うと恥ずかしいので「ははあん、サイゼリ屋なのだな」と覚えていたのだが、これも無駄な記憶法ということになりそうである。

 これはサイゼ側の懐の広さが辞書編纂者の裏からの日本支配を脱した例だが、考えてみればまったく、レストランとしてのサイゼリヤには感謝しかない。こと私が子育てを始めてからの20年間、このファミレスで嫌なめにあったことなど一つもなく、常に私たち家族の中でごちそうレストラン、なのに安いという輝ける価値を保ち続けた。なんなのかあのメニュー、なんなのかあの価格。なんなのか辛味チキン、なんなのかハウスワインである。しかしサイゼリヤも人の子イタリアの子であり、どうしようもないことはあるもので、値上げや、値上げではないものの仕様変更によってコストダウンをはかったと思しい事例がある。それらすべてを許す気持ちで見てはいるものの、なんだろう。正直な話、ちょっとひっかかることはある。その中で記憶に残っているのが「タバスコがなくなった」である。かつてテーブルの上に自由に使える調味料として置かれていたタバスコが、あるときなくなった。

 確認したことはないが、あれはおそらくはコストダウンのためだと私は思う。これは少し悲しかった。ピザを頼んでそれにタバスコを振って食べるのが好きだったからだ。テーブルからなくなって、しばらくはそれでも店内にはあったような気がするが、今はもうないと思う。頼めば出てくるのだろうか。試したことはない。

 さてこれが、どのくらいの節約になったものだろうか。考えてみよう。タバスコの値段は、私が今さっき近くのスーパーで見てきたところによれば、60ミリリットル入りの瓶でだいたい300円くらいであった。サイゼリヤの仕入れ値はもちろんこれよりずっと安いだろうから、まあざっと半分として150円。一方、客一人がどのくらい使うかは、もちろん人により料理によるだろうが、いっそ赤ちゃんからお年寄りまでもうみんな使うとして、メニューのうち半分の料理一品につき10滴くらい使うと考えてみてはどうだろう。1滴はだいたい0.04mlくらいと言われており、10滴使うと0.4ミリリットルふりかけることになる。場合によっては倒れそうに辛くなると思うが、このペースで使われてゆくとすると、これで300品の料理を出したらタバスコの瓶が空になる。つまり料理一品あたりコストは0.5円だ。多めに見積もったと思うが、それくらいのコストがかかる計算になる。

 一品当たり0.5円のコストをどう考えるか。直感的にはほぼゼロに思えるがどうなのか。一人用のピザ一枚を頼むと400円くらいするので、400円の商品による利益に比べれば十分小さく、無視できるような気がする。一説には飲食業の粗利率(原材料費だけを引いて残った利益を価格で割ったもの)は6割以上あると言われていて、原材料費200円のうちの0.5円ということになるのだろうが、やはり許容の範囲内に思える。なにしろ何種類もあるピザが現在多く399円均一だが、サラミが一本少ないとか多いとか、そういう実際の原材料費のばらつきはとても0.5円には収まらないだろうから。少なくとも誰かがこれについて真面目に考える価値がありそうには思えない。客が2品ずつ頼んで客単価1円として考え直しても、やっぱり微々たるものに思える。

 しかしそうでもないかもしれない。そう考えるのはサイゼリヤが大規模なチェーン店であるからである。サイゼリヤのサイトから見つけたこちらにあった資料を参考にして書くと、サイゼリヤは国内に1000店舗くらいあるらしい。そこに年間のべ1億3000万人くらいの客がやってくる。その客がそれぞれ1円ずつ調味料を消費するかどうかという話をしているわけである。もしかしたら、そう考えるとこれはかなり大きい話かもしれない。社内でこれについて考えるチームを編成し、数ヶ月かけて結論を出してもいいかもしれない。なにしろタバスコを廃止することができれば、毎年1.3億円のコスト削減になるのである。

 だから実施されるのだろう。よろしいわかった。と思うのはちょっと早い。1.3億円と比較されるべきは「売り上げ」である。売り上げはどうかと考えると、年1000億円くらいあるのである。1.3億は1000億との比較で語らねばならない。よく考えたらこれは当然で、さきほど400円のメニューに対する0.5円の比率で考えたが、ここで同じ比率に戻ってくるわけである。やっぱり、結局、大したことない話に思える。総額としては巨額であるが比率としては大したことがない。ではタバスコくらい置いてくれればいいではないか。どうしてそういうことをするのか。

 こうして、大規模なチェーン店においては、そうであるからこそ、こうした「どちらでもよい」「大した問題ではない」というコストに関して、真剣に考え、そのままにするか廃止するかについて考える余地が生まれる。要するにこれはそのあたりの問題として理解するべきなのだろう。これが個人経営のラーメン店であれば、客一人あたり0.5円のコストは、まあ、無視されることだろう。売り上げに占める割合もとても小さい。真剣に考えてもしかたがないし、よしんば節約できてもたいしたお金ではなく、考える時給がもったいない。それよりも顧客満足度というか、気持ちよく食事して帰ってもらってまた来てもらう、目に見えない効果を優先するだろう。しかし大企業では違う。客あたり1円未満の物事について、大の大人が真剣に比較検討して、削減するべきかどうかを判断ができてしまう。多くの顧客がなんとも思わずまた来てくれるのであれば、コスト削減効果は魅力的である。担当者にとっては、1億円超を削減した大きな成果ということになるのだろう。

 これはサイゼリヤが企業としてどう、姿勢としてどうという話ではない。要するにこれはすべて、サイゼが大きな企業であるということに由来している。大きな企業ほどこうした1円、50銭のことが重要視されてしまうという、業のようなものではないだろうか。大きな企業はこまかなお金をたばねて俎上に載せ考え込む余地が生まれる。そうして、細々とした原価削減への努力がなされ、なんだかケチくさい、消費者としては「どっちだってよいが節約されている場面」に遭遇してしまうという、そういうことなのではないかと思う。

 思い出深いサイゼリヤばかり話題にしては本当に申し訳ないから他を考えると、レジ袋もそうだ。あれはルールで決まっているからしかたない面もあるが、最近店によっては明らかにそこを超えて、たとえば紙袋に料金を徴収したりしている。服や本を買って数千円単位でお金を使ってくれる客から店が得られる儲けがいくらかを考えると、袋代の儲けなんかは無視できて、客の不興を買ってまでこれを確保する必要はないだろうと思うのだけど、大きなチェーンであるのでこうした決定がされるのだろう。束ねれば大きな効果になるからである。社内検討チームが取り組むに足る、一本の仕事になってしまうからではないか。

 思うのだが、こういうのは、細かいことを深く考えない(考える理由がない)小さな企業がたくさん、つぎつぎ出てくる業界では起きないことかもしれない。新しい小さなレストランで卓上のタバスコが提供され、小さい店だから何も言わず何も考えずにそれが続く。新しい小さな店でレジ袋が無料で配られる。客がそっちに流れ、これを看過できない大手が真似をする。そのようにして大手はコスト削減を踏みとどまり、サービスは改善される。そういうものかもしれない。

 思い返してみれば日本語変換プログラムも、かつては比較的小さな会社、サードパーティ製がたくさんあって、私もそれを買って使っていた。それからずいぶん時間が経ち、コンピュータの性能もAI技術もうんと向上したというのに、その頃の競い合い、機能を充実していた頃が一番使いやすかった気がする。大手がOSのおまけでデフォルト変換プログラムを提供している現状は、まさに日本を裏から支配するがごとしである。小規模なメーカーが戻ってきてくれることを、無責任かもしれないが、望むものである。茨城県は困るかもしれないが。


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