光をぴったりにする

 人生いろんなことがあるので、あるときあるところで、あなたがこういう質問を受けることがあるかもしれない。水はなぜ0℃ぴったりで凍り、100℃ぴったりで沸騰するのでしょうか。偶然の一致にしてはできすぎているではありませんか。もちろん答えるのは簡単だ。話は逆で「水の物性を基準に摂氏の温度目盛を決めたから」である。なるほどべつに何らか深い理由があるわけではない。しかしこういうとき、この質問をした人をどう評価するかは難しい。質問の答え、事実がそのようにしょうもないからといって、ばかな質問とみなすのはどうだろうか。たぶん小学校か中学校の理科の時間に、すこし別のことを考えていたとかで大人になっても摂氏の意味を知らないままピュアに生きてきて、あるときふと自分で「この偶然ありえなくね?」と気付いたとしたらなかなかあっぱれなことにも思える。確かに奇妙な偶然の一致に思えるからだ。

 面白いかどうかはわからないが、偶然の一致といえば、光の速さがある。よく知られているように真空中の光の速さは299,792,458m/sであり、これは定義値である。いや「よく知られている」ってなんやオレは初めて知ったぞ、という人にこれを話すと混乱するだけだが、なぜこの速さなのかというより、あるとき、この速さを基準にして単位のほうが決められるようになった。299,792,458。これを見て誰もが思うこととして、なんかこれは、異様に300,000,000m/sに近い、というのがあるのではないだろうか。299,792,458はほとんど、それこそ0.1%以下の誤差で300,000,000だが、なんだろう。これはなぜなのか。なんか深い理由があるのではないのか。これにはどう答えるか。

 おそらくこれは本当に完全に偶然の一致なので、理由などない、たまたまなのだという答えにならざるを得ないだろう。光の速さはこの世界の基礎であって、たぶん宇宙の最初からこうだった。これを測定する長さの単位のメートルは、もともとは地球の大きさから決められた。「極から赤道までの長さの10,000,000分の1」がもとの意図であり、地球の大きさが違っていれば、あるいは長さの単位を別の基準(たとえば手のひらの長さとか)で決めていれば、特に問題もなく別の単位になっていて、私たちはメートルとまったく同等にそれで満足していたはずである。かたや時間の単位である秒もたまたまだ。誰でも知っているように、地球の自転周期(太陽日)の24分の1(時)の60分の1(分)の60分の1が秒である。人類が別の惑星に発生していれば、または24たら60たらいうよく考えたら恣意的でヘンテコな分け方にしなければ、これもこの長さではなかっただろう。歴史をやりなおすとまた別の単位が発生しそうであり、そうすれば299,792,458というキリ番ニアピン賞なんていうことはなかった(※1)。実に不思議なことである。

 それにしても、どうせここまでぴったりなのだから、そして今や基準は光の速さなのだから、せっかくだから本当にぴったりにしたらどうなるか。今回はそのことを考えよう。光の速さはほとんど300,000,000m/sである。ほとんどだ。微妙には違う。ほとんどでは満足できないあなたのために、ぴったり300,000,000にしたいがどうしたらいいか。いま、世界をちょっとだけ変更して、具体的にはメートルを少しいじる。今の1メートルよりもほんの少し短い1新メートルを定義して、光は1秒間に300,000,000新メートル進むとする。すると光の速度がぴったりした数字になってとても嬉しいわけだが、どうだろう。とはいえうまい話ばかりではあるまい。これから新メートルで生活するとしたら、いったいどういうことになるか。

 まず、1新メートルは999.3mmである。わずか0.7mmだけだがもとの1メートルよりも短い。これで測定すると身長が少し伸びる(わけではないが、身長を表す数字が少し増える)ものの、新旧の差は1mm程度にとどまるようだ。影響はそんなに大きくなさそうだ。100新メートル走は今までよりコースが7センチ短くなるので、記録の連続性のためには100.07新メートル走にしなければならなくなるだろう。42.195キロメートル走るマラソンで30メートルくらいの差になる。地球一周の長さは(そもそもの定義から)約40,000キロメートルだが、この規模で、距離を表す数値が30キロメートルくらい変わる。赤道のまわりの長さは40,075kmだそうなので、これが40,103新キロメートルになるということである。

 どうも、考えれば考えるほど、これくらい大した話ではないので、もういっそこの新メートルでこれから暮らしていけばいいではないかと思うところだが、ここで正気に戻って考えれば、まあたぶん、それをやるとあちこち問題が出てきて困るのだろう。長さを基準として決められているさまざまな度量衡が新規やり直しになり、たいへん混乱する。わやくちゃになる。新旧の違いをきちんと管理して把握していればどうということはないだろうが、どこかにうっかりな人はいるもので、結果、衛星がコントロール不能になったり飛行機が落ちたりするかもしれない。それでいて得られるものは「光の速度がぴったりになって嬉しい」くらいしかないので、わずかに半端な値になっている光の速度はがまんしてそのまま使い続けようではないか、ということになったに違いない。当然だ。私でもそうする。すまなかった。余計なことを言った。

 しかし、もう一つ手段があるのである。距離をやや短くするかわりに、時間をやや伸ばす方法である。つまり、1.00069秒の長さを持つ「新秒」というものを作り、これからそれで生活する。こちらはどうか。これでも光の速さはちょうど300,000,000m/新秒ということになるが、これをやるとどういうことになるか。なんだかメートルの話の繰り返しになるが、なんだこれっぽっち大したことは起きないのではないか。なにしろ差は0.00069秒だ。カップ麺を待ちきれなくてお湯を注いで2分で食べ始めてしまう私にとって、0.00069秒の差など、まったく気がつかない範疇の話ではないか。

 もちろん困る。困るのだ。新秒はいいとして、どんどん調子に乗って60新秒を1新分、60新分を1新時、24新時を1新日とすると、1新日は今まで使っていた1日に比べて、なぜかほぼぴったり、1分だけ長くなる(詳しくは約59.8秒長い)。大した差ではないので、がまんしてこれで生活していてあまり問題なさそうな気が一瞬するが、もちろんそんなことはなくて、1日に1分ずつ、時計と太陽の動きがずれてゆくので、やがてじわじわとたいへん困る。その気になれば我々は秒をいじることはできるが、地球の自転は変えられないのだから仕方がない。毎日1分、3日で3分、時計が12時を指すお昼の時間と太陽が真南に来る時間がずれてゆき、やがて一時間ずれ、二時間ずれ、半日ずれ、そして私たちは真夜中に昼食を食べ昼間に寝ることになるであろう。こういうわけなので、時間をいじるのはメートルをなんとかする面倒すべてに加えてさらにもうちょっと本質的な問題になってしまうわけである。計算すると、1年で0.24日ずれが生じて、2年経つと夜中と昼間がちょうど入れ替わってしまう(※2)。

 と、ここまで計算してみて気がついたのだが、4年につきちょうど1日ずれるというのは、なんだろう、これも本当にたまたまだと思うが、うるう年の周期と一致するのではないだろうか。自分で考えておいてなんだが、これはちょっと信じがたい偶然の一致で、そんなことがありうるのかと何度か検算してみた。たぶん正しいと思う。つまり「新秒」で時間をはかると、うるう日が(かなりの程度)いらなくなるようなのである。

 説明しよう。新秒で生活していると、太陽と時計がずれてゆく。それは一日につき1分だが、こうするとあるときは夜中に、あるときは真っ昼間に「0時」がやってきて日が(新日が)変わる。考えるだに面倒なことで、とてもやっていられないが、もしもそれを我慢して使い続けたとしたら、一年は単純に365新日でよい。そうなのだ。365新日は今の365日よりももっとずっと1年に近い。1年=365新日のカレンダーを使っていると、4年に1度のうるう日(2月29日)を挿入する必要がなくなる。どうやらおおよそ100年、詳しくは92年に1回くらい閏年を設定して調整すれば十分であるようである。

 これはかなり面白い偶然の一致というべきだろう。そもそも光の速さがほぼ毎秒30万kmであることもそうだったが、もしも秒を地球の(自転ではなく)公転を基準として、「一年の365分の1の24分の1の60分の1の60分の1」と決めていれば、そのときの時間単位で測定した光の速さは今よりももっと300,000,000に近くなるのである。ズレはなんと0.003%程度になるようである。なんでこうなるのか。摂氏の話のような納得ゆく説明などできないが、世界はときどき、こんなふうなわけのわからない偶然が生じるもののようである。


※1 加えて、十進法でないと「キリ番」にはならないという話もあるかと思います。
※2 毎日夜の11時58分59秒の次を12時0分0秒にする的な解決策もありますが、これはこれでたいへんだと思う。


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