百万人の耳に届け

 実は、このホームページが始まった頃、人々はまだ音を使った情報通信をやっていた。本当だ。1998年ごろの話になるが、そのころはまだ、インターネットを家で使おうと思うと、モデムというものを買ってきて家に置き、電話線に繋ぐ必要があった。パソコンをインターネットに接続するときは、このモデムが私にかわってインターネット会社に電話をかける。人間が電話をかけるときのように、相手先の番号をダイヤルし、つながった向こうのコンピュータと電話をする。ガーガーピガピと人間にも聞こえる音を立てて、その音でデータを通信するものだった。

 つまり、専用線などないご家庭からコンピュータで文字や画像をやりとりするにあたって、その頃の私たちが使っていたのはデータ専用に引かれた回線ではなかった。「もしもし」や「お世話になっております」が流れているのと同じ、普通の電話の音声が流れる普通の電話回線で、音波を意味する電気信号を、音波を伝える手段として使用してその上で通信を行っていたのである。せっかく電気が流れる電線が私とサーバの間にあるのだから、音を介さなくても直接電気信号で通信をすればいいのにと思うが、まだそうはなっていなかった。当時は、コンピュータとコンピュータとの間に音があった。最後の時期に通信速度は56kbpsというから、秒間3500文字くらいの情報が音に変換されて流れていたことになる。私のこのページを1秒くらいかければ読み込める計算である。

 インターネット通信はやがてISDNになり、ADSLになり、光回線になって、ピガピガと音を立てる賑やかなモデムは過去のものになったが、最近、ふたたび音を使って通信すればどうかと考えることがある。機械と機械が通信する上で音を使った通信を、もしいまやるとすればどうだろう。それなりに結構応用範囲が広いのではないだろうか。

 つまり、音声によるQRコード的な存在である。QRコードのモザイク状のパターンは、コンピュータとコンピュータ(片方または両方人間でもよいが)が、平面に描かれたパターンとカメラに映るその陰影を通じて短文をやりとするしくみである。これを音でやる。モデムがガピガピいうのも結局音声にデータが乗っているのだから「音声によるQRコード」と言えなくはないが、もう少し音階や長さにデータ構造を持たせて、人間が聴いてそれほど不快ではない音を使った短いデータのやりとりを新たに設計するとしたらどうだろう。

 可能か不可能かで言えば、できない理由は何もないように思える。今やスマホがカフェに流れる音楽の曲名を表示する機能があるくらいである。コンピューターの「耳」とそれを解釈する「脳」はかつてよりはるかによくなっているし、技術的にも解決困難な点はなさそうである。音源との相対速度によるドップラー効果や雑音の混入を誤り訂正する仕組みを組み込んで、データ音を聞き取ったスマホがそこに含まれた情報を受け取り表示する。もちろんそれほど長大なメッセージは載せられないだろうが、ある程度の時間がかかったとしても、数十文字くらいの情報をやりとりできれば役立つことが多いように思える。

 たとえば緊急車両だ。あれは周囲にサイレンで自分の存在を知らせるが、あれを自分の代わりに車に聞き取って欲しいと思わないだろうか。いま、ますます自動車の気密性や遮音性はよくなっていて、緊急車両のサイレンが聞きとれない運転手が多くて困っていると聞く。どちらから来ているか、接近中か離れていっているか、といった情報のほか、どんな種類の緊急車両か、今交差点を渡ろうとしているか路肩から追い越そうとしているかといった情報を、サイレンの音に含ませるのはどうだろうか。車載コンピュータがそれらを聞き取ってドライバーに教える。そんな機能がない車を運転していても、単なるサイレンに聞こえるだけなので邪魔にはならない。しかしデータ聞き取り機能付き車両であればさまざまな手がかりが得られる仕組みだ。こういう通信はETCのように電波でもできるし、光学的な仕組みでもできることだろうが、どうせ音を出す仕組みがあるのなら、それに乗せるのは理にかなっている。

 あるいは防災放送はどうだろう。地震や津波などの災害の時、街角のスピーカーから警告等が流れる仕組みになっていることがあるが、聞き取りづらいこともあり、あまり役に立たないように思える場合がある。あの経路を使い、スマホが聞き取れるような「津波が発生した」くらいの最低限の情報と、詳しい情報を表示するURLを送信できれば役に立つだろう。同じことを校内放送や駅の構内放送、車内放送等でもできて「このへんにいるスマホにだけ情報を送りたい」という情報送信相手の選別をしたいときがあると思われるが、このへんの意外とやっかいな問題 が、音を間に介することで比較的簡単に可能になるのではないか。

 広告への応用も広範である。街に流れる音楽に情報が載る。乗せたい、と思う人は多いはずである。昔住んでいたアパートの近くに「高円寺放送」という街頭広告放送があって音が流れていて、あれはなんの権限で私に広告を聞かせていたのかよく考えたらおかしかったが、ああいうのとか、他に、ラジオのコマーシャルや番組も簡単に情報入りにできる。そうだ、考えれば考えるほど、ラジオこそ音のQRコードを必要とする業界に思える。おたより募集のメールアドレス、番組ホームページのアドレス、ツイッターのIDなど、音声で伝えるのは面倒だがデータ通信で送るなら簡単な短い情報は多々ある。番組や広告のサウンドロゴが機械が聞き取れる情報を含んでいて、そうした短文を伝えられると、助かる人は多いはずである。

 どうだろう。おおむね私の思いつきというのはいつもくだらなくて、なんか書くとすぐに「それはもうあります」「それはこういう問題があります」と言われて、なんだこのやろう!ばか!おたんこなす!と悔やみ酒で酔い潰れる日々だが、このアイデアはどうか。ちょっと考えるだけで、いろいろ利点がある。このようによいことが多いので、早く誰か特許を取って大儲けするべきだと思うが、あ。……ああ。

 ああそうだ私はいつもだめだ。ここで気がついた。グーグルなどのサーチエンジンで「画像で検索」ができるようになっているが「音で検索」ができればこのへんの問題はすべて解消するのかもしれない。ちょうど音楽を聴き取るソフトがネット上のデータベースに問い合わせて類似した音楽を探すように、サーチエンジンはスマホが聞き取った音声データからそれに対応する情報を探し出す。それはメールアドレスだったりURLだったり、震度などの情報だったりするだろう。勇んでアイデアを披露したが、コンピュータの計算パワーと通信速度が一定値を超えた結果、音のQRコードはすでに不要になっているのかもしれない。

 このように「わざわざ発表する意味はなさそう」ということになってしまったが、まあ、絶対に実現しないものでもなさそうだし、そのうち本当に高円寺放送みたいなやつからスマホに広告が届けられる日がやってきたときに「おれはこの未来をよそくしていた!」と大威張りで言いたいがために、ここに書いておくものである。あっ「もうあります」とか言われたら、また酔い潰れなきゃなので本当にやめてください。


※「QRコード」はデンソーウェーブの登録商標です。


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