にぎやかな未来に

 携帯電話の普及のおかげで、街で一人で大声で話している人はめずらしくなくなった。

 駅のホームで、携帯電話片手に誰かと話している人がいたとする。周りに聞こえるくらいの大声で「ああっ、電波が弱いんだよ電波が。がはは」みたいなことを言っている。周りの状況とは関係なく、一人でなんだかエキサイトしているのだ。もちろん、それは電話をしているからで、よくあることである。よく見たら彼が耳に当てていたのはテレビのリモコンだった、というようなことがあるとちょっとホラーであったりするが、まあ、めったにはそんなことはない。街で見かける、この人はどことつながっているのだろう、という人は、昨今はたいてい実際にどこかとつながっているのである。まことに、科学の進歩とは恐るべきものである。

 ある方の書いたエッセイに、ウォークマンで落語を聴いていたらおかしくてたまらず、満員電車の中でついに吹き出してしまい、満員電車だというのに以後妙に周りがすかすかした、という話があったが、一般にヘッドホンステレオは落語を聴くものではないのだから仕方がない。これがラジオだったら、そして彼女が競馬新聞を片手に耳に赤鉛筆を挟んでいたら、これはもう誰が見てもラジオで競馬中継を聞いているのであって、「よっしゃあっ」などと大声で言ってしまっても周りの人に変な人扱いを受けることはない。ただ、傍若無人な人だとは思われるかも知れない。

 あるとき、私の友人、彼はのちに私の首についてなんらかの権利を主張できることになる男だが、その男が私の部屋に遊びに来た。彼は私のゲーム機を取り上げると、一人でテトリスやらコラムスやらクラックスやらなにやらに挑戦している。私は私で、彼が買ってきた漫画雑誌を読んでいる。と、その中のあるギャグ漫画に私はおもわず吹きだしてしまった。
「ぷっ。くすくす」
 ゲームをしながら、その友人が言ったことには、
「なんや、もう、きしょく悪いなあ」
 私はちょっとムッとした。言うに事欠いてきしょく悪いとは何か。私は、一息でそれらしい理論武装を完成すると、一気にまくしたてた。
「君は今気色悪い、と言ったな。それは違うぞ。確かに思い出し笑いをして、何もないのに笑ったりしていたら気持ち悪いかもしれない。これは、相手がどうして笑ったかわからないことによる不安感というものだ。だが、今は違う。確かに同じ部屋にいる君とは関係のないシチュエーションで笑ったのは確かだが、私はいま漫画を読んでいるのだ。漫画がおかしくて笑うのは普通のことだし、横から見ていても、私が笑ったわけが、漫画の内容がおかしかったからというのは自明である。したがって、君が気色悪いと感じる道理はない。君は単に、『一人で笑っているのは気持ち悪い』というフォーマットにしたがって『きしょく悪い』と表現したにすぎないのだろう。大変不快である。いや、『きしょく悪い』と表現されたことに対してではなく、頭を使わずに類型的に反応した君のその発言に腹を立てている」
 よく喧嘩にならなかったものである。

 まあつまり、携帯電話も、そういうものだと思えば、気にならないはずなのである。独り言を言っている人は気持ち悪い、と思い込んでいるから気になるだけなのだ。ノートパソコンが普及し始めたころは、電車のなかで広げている人を見るとずいぶん奇異に感じたものだが、最近はよほど混んだ電車でないかぎり、周りを見回せば一人くらい端末をいじっていることが珍しくない。常識は、変わってゆくのだ。

 そこで近未来である。実にありそうなことだと思うのだが、今、「アイトレック」のような眼鏡状の画像投影装置、ヘッドマウントディスプレイは商用機として発売されて久しい。もう十年か、ひょっとして五年もすれば、外見上普通の眼鏡と区別の付かないようなディスプレイが登場すると考えても間違いあるまい。一方、音声認識、音声合成の技術もかなり進んでおり、コンセプトマシンにすぎないものの、眼鏡型ディスプレイ、音声認識デバイスその他を実際に装備したウェアラブルPCが発表されたりして、実用化寸前という状態にある。
 そこで、完全なディスプレイ眼鏡、音声認識、携帯電話による通信装置などを備えたパソコンが作られたら、空中になにか秘書を投影するようなスケジュール管理ソフトが登場するのは必然ではないかと思う。電車の中、液晶眼鏡をかけて座っていると、目の前の空中に、妖精のような姿形をした秘書キャラクターが登場して、言うのだ。
「失礼いたします。予定の時間の、五分前です。カネヤンとの待ち合わせです。待ち合わせ場所の新宿に急いでください」
 眼鏡のツルには当然小型スピーカーが内蔵されているのだ。秘書は、視界の端あたりで邪魔にならないようにぱたぱたと羽ばたいている。返事を待っているのである。このままにしておくと、こちらが気がついていないと見なされて、もう一度アナウンスが入る。あなたはそちらを向いて、頷く。
「わかった。データベース。鉄道。位置検索システム。現在位置から、新宿までの所要時間」
 と、あなたはマイクに向かって話しかける。
「お待ちください…地図を表示します。目的地までこのまま山手線に乗っていると十五分かかります」
 画面が切り替わって、路線図になる。こちらが注目していることはわかっているので、地図は目の前に大きく表示される。もちろん、半透明なので視界を完全に遮ることはない。
「わかった」地図が消える。「新規メール。宛、カネヤン。サブジェクト、遅れてすまん。内容、買い物をしていたら遅くなりました。一〇分ほど遅れます。先に飲み屋にいっていてください。セーブ。送信」
「完了しました」
 これを外から見ていると、眼鏡をかけたあなたが、空中にむかってなにかぶつぶつとつぶやいているように見えるのである。視線まで宙に浮かせて、さらに時々うんうん、と頷いたりしている。二十世紀にこんなことをしていたら周りがどう思うかはあえて書くまでもないだろう。しかし、逆に考えれば、いったんこのシステムが普及すれば、うっかり電車で独り言を言ってしまっても、もう安心である。メールを書いているのかと思われるだけだからだ。
 もっとも、電車の中での使用が禁止されるのは目に見えているし、電車の中で使う勇気が出るかどうかは別である。いっそみんなが電車に乗ったらぶつぶつつぶやいている、くらいに普及すれば、それはそれで誰の迷惑にもならないし、恥ずかしくもなくなると思うのだが。

 さらにきっとだれかがこのシステムの上で動くペットを開発する。彼は、使っている人にしか見えないものの、本物そっくりに、背景に溶け込んで遊び回るのだ。育て方が悪かったのか、飼い主に似たのか、あなたのペットは周りの物や人にいろいろないたずらをする。いたずらと言っても、もちろん自分にしか見えないディスプレイ上のことなので、あなたは何となくいつもこのペットソフトを立ち上げていることになる。あなたが上司と話をしているときなど、ペットはとんでもないいたずらを上司に向かってしかけている。時には、スイッチを切るのを忘れたばっかりに、顔に落書きをされた上司を見ながら、笑いをこらえて叱責に耐える羽目になる。

 もう少し言うと、このシステム上に仮想上の恋人を出現させる輩がきっと出る。彼/彼女は、完全にあなたの理想の男性/女性であり、あなたの前に立って、なにかと話しかけてくるのだ。いい天気だ、すっかり春だね。今日はお誕生日ね、おめでとう。こんなジョーク、知っているかい。あなたのことをあんな風に言うなんて、本当に嫌な奴ね。しかし、たとえ空中に向けて、電車の中で、その恋人にあれこれ受け答えしていても。
 いやこれは、未来でもやっぱり不健康というものだろう。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む