ふたごたちへ

 以前「子供を育てる明るい我が町」という題名で書いたことがあるが、私のアパートの近所にひとり、きわめて気さくな男の子が住んでいる。田上竜平君、と勝手な名前で私が呼んでいるその少年、幼稚園児くらいの年齢なのだが、よほどしつけがいいのか、私が通りがかると必ず挨拶をしてくれる。というより、私に向かって挨拶をしたあと悲しそうな目をしたりして、私に挨拶を強要するのである。アパートへの出入り口の木戸を開けっ放しにしていることを咎められたこともある。生ゴミを夜中に出したり回覧版を回さなかったりしたら、誰よりもまず彼に怒られるのではないかという気がしてならない。

 この少年に関して先週、あることに気がついた。梅雨の晴れ間になったその日に、わけあって私は日の高いうちにアパートに戻ってきた。昼間はいつもそうなのだが、アパートの前の道で数人の子供が遊んでいる。彼らの横を通りすぎ、木戸を開けてアパートに入ろうとした私が、ふと違和感を感じて振り返ってみると、そこで竜平君が私を見ていた。
「や、こんにちは」
 と、私は挨拶をした。当然挨拶はするのである。さらに右手は木戸のノブを握りしめたままだ。すまんがもう君には木戸を閉めさせたりしないぞ、と決意を込めているつもりである。竜平君は嬉しそうにうなずくと、
「こんにちはっ」
 と元気よく挨拶し、仲間のところに走っていった。私は「アルミ缶はちゃんと潰して捨てないといけないんだよ」などと言われなかったことに内心ほっとしながら、走り去る彼をなんとなく見ていたのだが、通りの向こうで、プラスチックの小さな自動車に乗って、後ろを押して欲しそうに彼を待っていた男の子は、よく見ると、あれ、あっちも竜平君ではないか。驚いた。そっくりである。

 つまり、どうも、田上さんちはふたごだったようなのである。いや、年齢の近い兄弟なのかもしれないが、顔といい背の高さといい、着ている服といい、そっくり同じなので多分間違いないだろう。さすがにこれにはびっくりした。木戸を閉めてくれた子と、挨拶をいつも私に強要する子、いま走っていった子と、クルマはA級ライセンスの子、記憶の中では一人だけだったのに、どの彼がどっちの彼だったのだろうか。ああ、混ざってしまうともう、どっちがどっちだかわからなくなった。私は首をふりふり、とりあえず竜平君じゃないほうを虎夫君と名付けることにして、アパートの部屋に帰ったのだった。

 私も、ふたごの一人になりたかった。自分と百パーセントコンパチブルの人間が一人いるというのはどんな気分だろうか。二卵性のふたごは、たまたま同い年に一人兄弟がいるというほどの意味しかないが、一卵性双生児となると、自分と遺伝子レベルでまったく同じ人間なのである。血をわけた、どころではない。クローン人間というのはこの一卵性のふたごを人工的に作ることにほかならないが、遺伝子が同じふたごからなら、臓器移植でも拒否反応が起きる気遣いはない。肝臓を壊したり、肺をヤったり、腎臓をイワしたりしても、スペアがあると思うと安心するではないか。

 いや、ケガや病気に限らない。あの話もこの話にもついてくる、ものの分かった友人が一人いるというのは実に快適なものである。ふたごなら自分と、少なくともハードウェアが同じなのだから、その辺りは心得たものだろう、というのは少々期待しすぎだろうか。実際はいくら同一のシステムでもカスタマイズの違いによって不倶戴天の敵になることも多いような気もするのだが、どうせ想像なのだから、自分がもう一人いると思ってもいいだろう。どこかに自分がもう一人いれば、とりあえず、お互いのホームページに常連の読者が一人ずつ増えることは間違いない。ネタの奪い合いになったりすると困るが、自分と同じセンスで、違うページを作っている人がいれば、個人的には是非見たいと思う。

 さらに言えば、同じ顔がもう一人いる、という状況がいかに応用の効く、素晴らしい環境であることか。小説などを読んで出てくる、ふたごを使った無数のトリックや悪ふざけの、しかし実行の栄誉にあずかれるのはわずかなふたごたちだけなのである。君も、鏡にみせかけたガラスの向こうのふたごがちょっとだけ違う動きをするという芸や、二人で少し違うポーズをとって「立体視」などというギャグをやってみたくないか。私はやってみたい。
 実は、私の高校時代の友人に一人、ふたごがいる。ところが、残念なことに、彼のかたわれは別の高校に通っていたとかで、一度も私の前に姿を現したことがない。高校から大学時代を通じて七年くらいは友人として親しくしていたのだが、本当にふたごなのかどうかもついに謎のままである。ふたごだからといって、特に高校生ともなれば同じクラスにいるとは限らないのだが、このようにふたごは「オイしい」という観点からすると、別々の進路に進んでしまった彼らはかなり損しているような気がする。もっとも、ふたごの間で得意分野を別にしておくと、技の一号力の二号ではないが、弱点を補いあうことができて、特に替え玉受験をする上で有利なところではある。他には、ええとほら、高校生クイズに参加するときとか。

 しかし、私がこのようにふたごへの思いを書きつづったところで、現実自分がふたごの一人である、という人がこれを読んだ場合、あまりいい気持ちはしないのだろうなという気はしている。多分こういうことだと思うのだが、誰かに似ている、と言われて嬉しいことはあまりないからだ。あなたも、兄弟や父母に似ていると言われて嬉しかったことがあるかどうか、考えてみればわかる。私など、高校生の時、よそのクラスの生徒に「マサユキ」に似ている、と言われたことがあって、これには困惑するしかなかった。「マサユキ」というのが誰かというと、彼らの中学生時代のクラスメートなのだが、私が似ているらしいのである。「おいおい、こっち来てみい、マサユキがおるぞ」「ホンマや、マサユキや」「うわ、そっくりやなあ、マサユキ、返事せえマサユキ」こんなことを言われて楽しいわけがない。「おい、マサユキ、あのギャグやってみい」などと言われるに及んでは、なおさらである。

 ふたごにせよ赤の他人にせよ、似ている、と言われるときには最低限、私が似ているのではなくて、私に似ている、と行きたいものである。ちなみに私の「ジャッキー」という筆名は、高校の時につけられたあだ名を使ったのだが、これは「ジャッキー・チェンに顔が似ている」というところから来たものである。気に入っているわけではないのだが、最初につい使ってしまってからずっと使い続けているので、もう変えられなくなってしまった。私にふたごがいれば、彼もジャッキーなのだろうか。案外、ジャッキーの仲間、ということで「サモ・ハン・キンポー」などという名前になってしまっているかもしれない。サモハン大西。なんだかこっちの方が座りがいいような気がする私であった。


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