インフレーション小宇宙

 教習所で自動車の運転免許証を取ろうとすると、その授業はまず、「学科」といって、教室で基本的な運転技術や交通法規を学ぶことから始まる。おしなべて退屈なものだが、ときどきは意外な、これまで他人の運転する自動車やバスに乗ってきた経験からは、にわかには信じられない知識があっておもしろい。
 たとえば「キープレフト」といって、あらゆる機会をとらえてなるべく中央の線から離れ、左に寄って運転せよ、という教えがあった。対向車との衝突可能性をなるべく減らす意味があるのではないか、とは思うものの、これは本当にやったら実は少し危険がある。ときどきいる、ふらふらと車道にはみ出してくる自転車や歩行者を、うっかり引っかけてしまう可能性が増すのだ。ある条件下では左に寄ることにもそれなりの意味はあるのだろうが、実際にはこんな端的な標語を守っているだけで安全に運転できるような、そんな単純なものではないのだろう。

 そんな「机上の知識」に終わりやすいことの一つが「徐行」だ。車を運転しない人は知らないかもしれない。よく見かける「徐行」という標識は、実は車にとってほとんど限界に近い遅さで運転することを指示している。ブレーキを踏んで一メートル以内に停止できること、だったか、このあたりは私が免許証を取得した十年前の記憶に基づいて書いているので、数字はいい加減なのだが、そしてこういうことをあいまいなままにしておいては運転者としてたいへんよろしくないように思うのだが、とにかく「徐行」よりも遅く進むなんてことはほとんどできない。

 にもかかわらず、現実の世の中ではこの面倒な「徐行」が少々軽々しく扱われいるような気がする。ちょっと見通しの悪い程度のカーブに「徐行」と書いてあったり、さすがに交通標識にはないものの、工事現場や工場構内などに「最徐行」と書いてあることさえある。
 これは、表現がインフレーションしてしまっているのである。もともとは「徐行」という言葉が、どう見ても「限界いっぱい遅く」というニュアンスが感じられないのも原因であって、この概念を「徐行」と表現しようと考えた昔の交通法規制定者は責められてしかるべきだが、なんでもない山道で「徐行」と書いてあったからといって、本当に時速十キロで運転したとしたら、とんでもない渋滞を引き起こしてしまうのだから仕方がない。むしろこんなふうに軽々しく「徐行」という言葉が使われすぎると、「徐行」とは普通よりゆっくり運転するくらいでいいのだ、という経験則を運転者が得てしまう。これでは本当に徐行しなければならない場面でかえって危険になってしまうのである。

 まこと、言葉のインフレーションは世の中にあふれている。危険表示、立ち入り禁止表示、それから宅配便の「ワレモノ」の表示。もともとはそれ相応の力を持っていた言葉が、多用されて使い古され、その力を失ったあげくに、それよりも大きな力を持った別の言葉を生み出さざるを得なくなる。こうして世の中は不必要な複雑さを増してゆくのだ。

 路線バスに時折、「一万円札、五千円札の両替はできませんので小銭をご用意下さい」という表示がある。これは多分強盗対策で、運転手が簡単に取り出せる場所に千円札の束があったりしません、と言っているのだろう。言葉のインフレーションに慣れた私の目には、そんなことを言っても本当は少しくらいあるんじゃないかとか、それは建前であって運転手さんに頼み込めばなんとかなるのではないかと思ったりもするのだが、両替の札は本当に、断固としてバスには無いらしく、乗る前にまず、払うべきお金を千円札で持っているかどうかをちゃんと確認しなければひどい目にあう。

「困るんやなあ。両替は、でけまへんねん」
 という言葉の口調の荒々しさで、私の意識は、ぱっと覚醒に引き戻された。バス停に止まった車内で、運転手と乗客がなにか言い合いをしている。バスの前の方の座席を首尾よく確保して眠り込んでいた私は、目的地まではまだしばらくあることに気がついてとりあえずほっとする。
「五千円札の、両替はでけへんのです。小銭を用意して下さい、って書いてありましゃろ」
 と運転手がまた文句を言って、運賃収集箱の前に立った乗客が黙り込んでしまった。まだ若いその女性の後ろを次々に、他の乗客がお金を払って降りてゆく。どうも、この女性は運賃を五千円札で払おうとして、拒絶されているらしい。
「ホンマに、千円札ないんでっか」
 女性は、ハンドバッグをひっくり返して探していたが、やがて言った。
「…、ええ、…ないです」
 ああ、本当に両替はできないんだなあ、と目をぱちくりしながら私はその光景を見ていた。やはりバス停には「一万円札の両替は金輪際徹底的に断じて出来ません、不可能です。千円札が足りないと恐ろしく完全にとてつもなく困った状況に陥りますので、絶対に完璧に親を質に入れても小銭をご用意下さい」くらい書いておかないと、慣れない乗客はそういう配慮はしないものなのだ。いや、こうまで書いておいても危ない。
「困ったなあ、この辺に両替できるような店はありまへんねや。どないしますねん」
「…その」
 少なくとも、よくこういうことはあるらしい。運転手は、バス停の周囲には適当な商店などない、という有用だが眼前の問題解決には役に立たない知識を持っている。そもそもバスの運転手は、平均するとどういうわけか、丁寧な言葉の使い方を知らない人が多くて、この人も乗客を無用に脅してしまっているのだが、確かに運転手の立場に立ってみると、これは厄介な事態である。それにしても、運転手は、この状況をどこに落とすつもりだろう。
「しゃあないなあ、またバスに乗らはりますか」
 お、と私は声を出さずに驚いた。どうやら、後で二回分払ったらそれでいい、ということらしいぞ娘さん。良かったな。
「いえ、乗りません」
 断固として乗るものか、という調子だったので私はひっくり返りそうになった。あああ、どうしてそういうことを言うのだ娘さん。丸く収まるところだったのに、馬鹿ではないか。五年後か、十年後かわからないが、乗ることはあるはずじゃないか。
 運転手もそう思ったらしい、なんだか「頭をかかえる」と表現したくなるような顔をしているのが見えた。私はふと気がついて、ポケットの自分の財布を探ってみた。
「あの、失礼ですが」
 運転手と女性がこちらを向く。偶然にも、私の財布に、千円札が五枚、入っていたのだ。

 こうして言葉のインフレーションが引き起こした悲劇は回避された。嬉しそうに、ぺこぺことこちらにお辞儀をしながらバスを降りていった女性をにっこりと見送って、バスは走りだす。しばらくして、またうつらうつらしそうになった私は、血も凍りそうな事実に気がついて目を覚ました。私、そういえば私はどうやって、バスを降りたらいいのだ。


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