宇宙間への大飛球

 あなたもそうだったろう私もそうだ。夢見がちな子供の頃から、脳が暇になった時、というのか、会話する相手がなくなったりして半端な時間ができると、周囲の風景を、現実と離れてまったく違ったふうにとらえはじめることがあった。公園の色とりどりのモザイクになったタイル張りの床を見て、赤いところはマグマ、青いところは海などと独り決めをして、緑のタイルだけをぴょんぴょんと辿ったことは誰にでもあると思う。

 あなたもそうだったろう私もそうだが、世界をそんなふうにとらえ直すのは、ぞくぞくするほどの快感がある。中学の時、教室の窓から見える風景が、ふと海辺の町に見えたことがある。授業中、椅子に座って窓から外を眺めると、ちょうど町の平野部がすっぽり手すりの陰に隠れて、山だけが視界に入ることになる。その見えない平野部まで海面が来ていて、この中学校のある高台が海際の崖っぷちに立っているように想像するのはごく容易だった。慣れ親しんだ村落が、輝く夏の海辺の町に見えはじめた、あの瞬間。そのときの私は、山間部に住む1985年の中学生ではなく、温暖化で南極の氷が溶け、海面が三〇メートル上昇した時代に住む2085年の中学生だった。私は今でもその時のことを思い出すと、幻覚のような鼻を刺す潮の匂いとともに、ちょっとした目まいのような感覚を覚えるのだ。そしてこれは決して不快な感覚ではない。

 さて、1999年の二八歳独身男性である私は、先々週あたりから頻繁にソフトボールの練習をしている。もうすぐ職場で大会があるのである。そのとき私は、同僚たちと一緒に、ポジションを交代しながらフリーバッティングみたいなことをしていたので、巡り合せでライトの守備位置にいたのだが、暇ということで言えばとにかくライトは暇である。うちのチームだけではないと思うが、ソフトボールだと、一塁側の外野にはまともなボールはほとんど飛ばないのだ。打者ひとり分の練習が終わる間、ホームベースから遠く離れて独りぼっちでこの広いグラウンドに立っていると、最近はめったにないことだが、脳が暇になっている自分を見つけることになった。

 遠く外惑星から太陽系を望むと、こんな光景ではないだろうか。茫漠たる宇宙空間に一人、冥王星に向かう個人用宇宙船から太陽系を眺めたとしたら。普通のイメージ的には、ホームベースのところにある太陽のまわりを、水星から火星までが内野ぐらいの範囲にあるとして、外野で一番バックしたら冥王星くらい、という感覚ではないかと思うのだが、本当の太陽系がそれよりももっとずっと何もない、悲しくなるほどなにもない空間だというのも小松左京の「さよならジュピター」あたりを読んだ人ならよく分かっているはずである。では、どれくらいのスケールなのか、ちょっと計算してみよう。

 今手元にあるソフトボールを測ったら、直径9センチ強というところだった。まず、これを太陽としてみる。このスケールでいうと、地球は、太陽から9.8メートル離れた直径1ミリ弱の仁丹のような球である。ソフトボールのルールによればピッチャーからホームベースまでが14メートル、一塁までが18.3メートルらしいので、一塁とホームベースのちょうど中間くらいの距離のところということになる。火星と太陽の間の距離がこのスケールで15メートルだから、内野に火星までの四つの惑星がすっぽり収まってちょっと余ることになる。ちなみに、月は地球から2.5センチ離れて地球のまわりを回っている。まだどんな人間も、そこより遠くに行ったことがない。

 さて、いまライトに立っている私のところからホームベースまでは50メートルというところだが、これは太陽系でいうと何に当たるか。と、これが木星なのである。火星のつぎの惑星である木星が、もう外野の守備位置くらいのところになってしまうのだ。なんとも遠い。ちなみに、土星は93メートルとなって、普通の野球の球場だとバックスクリーンくらいの位置になる(ただし、ソフトボールだと球場の広さは普通もっと狭い)。そこからがまた間隔が空く。天王星は187メートル。海王星は294メートル、冥王星はホームベースから実に387メートルの距離だ。ここが甲子園球場だとすると、甲子園の横を走っている阪神高速神戸線の道路の上に天王星があることになる。冥王星までとなると、阪神電鉄の甲子園駅までの距離に相当する。これだけの広さの空間に、一番大きいので直径一センチしかない、九つの惑星しかないというのはどうだろう、これはかなりうら寂しいことではないだろうか。むしろ、こういう惑星たちがあるということが、そして他にはなにもないということが、よくわかったものだと思う。

 そういうわけなので、私の立っている位置は、まだなじみ深い木星軌道ということである。センターを木星とすると、ライトとレフトはそれぞれ、トロヤ群とみればいいだろう。トロヤ群というのは、木星の軌道上、前方と後方にある小惑星群のことだ。木星と太陽の引力の釣り合いの関係から、ここは重力的に安定な位置なので、たくさんの小惑星が位置している。上を北とすると、私のいるライトは、後方トロヤ群ということになるだろうか。まあ、本当は軌道を六〇度もずれた方向になるので、せいぜい四〇度しかずれていないライトの守備位置では、すこしセンターに近づきすぎではある。

 とにかく私は、そうした空想と計算の中に肩まで沈み込んでいたので、こっちに向けてふらふらと打ち上げられたフライを思わずとりおとしてしまった。まあ、しかたがない。このスケールだと、打球の速さは光の速度の50倍もあるのだ。


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