吠える動物

 犬の話をしよう。

 よく「犬は好きか」という質問をされることがあるが、これにはやはり「ではお前はイギリス人が好きか」と答えたい。イギリス人でピンと来なければ、鹿児島県民が好きか、でもコンビニの店員は好きか、でもいい。要するに、個々の構成要素を無視して、あるグループ全体を指して好きか嫌いかという質問には、ちゃんと答えるのは難しいのである。好きな犬もいる。嫌いな犬もいる。たまたま今まで身の回りにいた犬はたいてい好ましい犬だったかもしれないが、これから先、もしかして山の中で一人になったりしたときに飢えた野犬の群れに囲まれたとしたら「犬は好きだ」と言えるかどうかはちょっとわからない。まあ普通はそうだと思う。

 小学生から中学生時代にかけて、私は一匹の犬を飼っていた。犬に限らず、飼い主としてどれだけの時間をその動物にかけてやれたか、ということが、動物にとっての飼い主を判断する基準になるとすれば、私の今までの人生で、この雑種犬「りき」だけには、私は合格点をもらえるかもしれない。彼も、私に応えてくれた。そもそも賢い犬であったのだろう。たいへん私のいうことをよく聞く、いい犬だったのだ。どうやって区別しているのか、家族、親戚、近所のおじさんおばさん、新聞配達人や郵便局員といったあたりにはほとんどコビを売っているくらい親しげな犬でありながら、見知らぬ怪しげな客はちゃんと区別して、ここから先は私を倒してから行ってもらおう、といった風情で激しく吠えかかるという、そんな頼りになる犬でもあったのだ。

 だれでもどこかで読んだことがあるに違いないが、犬という種族は、あまりできのよくない目ではなく、非常に鋭い鼻と、鼻ほどではないがそれでも人間より優れている耳をもって、この世界を把握していると言われる。犬の目は、猫のそれとは違い、映像も白黒で暗やみを見通す力も持っていない、実に貧弱なものである、というのである。しかし、だからといって、彼らが目を使っていないわけではない。この「りき」について、こういうことがあった。

 ある日、私が風邪を引いたかなにかで平日に家にいたときのことだ。もうほとんどよくなっていた私は、布団を抜け出してトイレに行った帰りに、ふと、りきの事が気になって、そのころ納屋の中にあった彼の小屋(そう、屋内屋を架していたのである)に近寄って行った。そのとき彼がどうしたかというのが、私には忘れられない。彼は私のほうをみて、ぱっと臨戦態勢をとると、俄然吠え始めたのである。この犬といういきものの吠え声には、なにか原始的な恐怖を呼び起こすものがあって、私はいつもうろたえてしまう。親しい飼い犬でも、それは変わらない。こんなことは、彼とのつきあいでたぶん始めてのことだったので、私はどうしたらいいかわからなかった。私は、吠え続ける彼に気弱に話しかけた、
「お、おい、りき」
 りきは、息つぎのあとの次の吠え声をはっと飲み込むと、あっけにとられたような、心底意外そうな顔で私を見た。犬を飼ったことがない人には説明しがたいのだが、犬というのは、そういう表情もできるものなのである。人間だったら、ぽかん、と口を開けたような表情だったにちがいない。そして、りきは目で訴えていた。あ、あちゃー。すいません。なんか、勘違いしていたみたいっス。

 どうも、風邪を引いていたために「どてら」を着込んでいた私の姿が、彼の目には家族ではない、見知らぬ他人に写ったらしいのだが、私は、犬が必ずしも鼻や耳で私たちを見分けているのではない、ということを、これで知った。まあ、どてらを着込んだくらいで飼い主の姿を見誤るくらいであるから、視力がさほど良くない、というのは本当かもしれないが。

 さて、そんなことがあってからもう十年以上が過ぎた。「りき」を失ってからの私の犬に対する総合見解は「吠える犬は嫌い、吠えない犬は好き」というところに、どうやら落ち着きつつある。基本的にはこの愛すべき生き物のことを私は好きだといっていい。しかし、私に向かってとにかく吠え続ける犬には、どうにもそれを乗り越えてまで親しくしようという気持ちが、どこからも出てこないのである。むしろ、いつまでたっても吠えるのをやめないたぐいの犬に対しては、なにやら名状しがたい殺意のようなものも湧いてくる。たとえ、彼が私のことを、そして私が彼のことを誤解しているのだとしても、またそれがほんの一言二言の言葉で解けるような誤解であるとしてもだ。「吠える犬」の中にはどうしようもない馬鹿犬がいて、彼らとは一生わかりあえない、と知ってしまった今の私には、めったにそれを乗り越えることができないのだ。

 私の通勤路に、一匹の犬がいる。正確には、私が自転車での通勤途中でよく通る一本の生活道路沿いに、その犬を飼っている家はある。犬を飼っている家自体はわりと数多くあるのだが、その犬がとりわけ目立っているのは、とにかく私が通りかかると、すわ緊急事態発生とばかりに、私に向かって無遠慮な吠え声をたたきつけるからである。いったいどういうことなのだろうか。彼にとって私は、どういう人間に見えるのだろう。もちろん私は、彼とその飼い主の家の敷地に踏み込んだことは一度もないし、彼の気にさわるようなことは何もしていないつもりなのである。
 だいたい、私は、ほとんど毎日、そこを通っているのである。慣れても良さそうなものなのだ。毎朝毎晩吠える代わりに、いいかげん、あのときもこのときも吠えかかったのにどうということはなかった、だから別に吠えなくてもいいのだ、と学習してもいいのにと思うのだ。もしかして、彼に言わせると、このオレ様が吠えているから、この家はあの賊から守られているのだ、ということでもあるのだろうか。

 とにかく、たとえば夜中、暗がりから急に吠えかかられるのは、その家には吠える犬がいるということをあらかじめ知っていてさえ、心臓に良いものではない。それどころか、驚かされたこと自体に腹がたってしかたがなく、棒か石かを使って彼に人間を、とりわけ私を怒らせたらどうなるかを教育してやろうかと思ったこともあるほどだが、それも人間のすることではない気がするし、その家の人に見とがめられたときどういって言い訳をしたらいいかわからないので、やめた。

 そんな毎日が二年近く続いたあとで、どうも、どんなときでも必ず吠えかかられるわけでは、ない、ということがわかった。昨年の秋のことだ。私は、ある動機から、ヘッドホンステレオというか、正確には「MP3プレイヤー」というやつだが、要するに携帯音楽再生装置を買った。暇な行き帰りにはたいていこれを耳に装着して音楽を聞くようになったのだが、あるとき、そういえばあの犬にしばらく吠えられたことがない、ということに気がついたのである。
 私は、これをきっかけに、どういう状態だったら吠えられて、どういう状態だとかの犬が我関せずという態度をとるかを注意深く観察してみた。退屈なこの実験と推論の過程はとばして、結論を書こう。要するに、私は、自転車に乗って、しかも音楽を聞いていないときは、たいてい鼻歌を歌っている。ふんふんふん、蜂が飛ぶ、といういわゆる鼻歌ではなくて、音があまりしない口笛というか、歯笛のようなものだが、どうにもかの犬は、それを聞きとがめると、自分の身に危機が迫ったと勘違いして臨戦体制をとるようなのである。

 いったいこれが何を意味するのか、私の鼻歌のどういうところが彼の気にさわるものなのか、私にはわからない。あるいは、私の歯笛からは、犬をこわがらせる超音波が出ているのかもしれない(ただし、その犬以外にもたくさんいる他の犬たちに関して言えば、別に、なんとも思っていないようである)、ともかく、そのことがわかって以来、「彼の前では歌をやめる」というただそれだけのことで、私は、彼との毎朝の不快な出会いを避けることに成功し続けている。これが私にとって、最近めったにない、彼ら吠える動物との誤解が解けた瞬間だったと、そういうふうにも言えるのではないかと思う。

 もう一度いっておこう。私は犬は好きだ。でも、思うのである。確かに下手なのかもしれないが、私がちょっと歌っていたくらいで、そんなに吠えかかることはないんじゃないだろうか、と。


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