いまひとたびのバレンタイン

「二千年問題って、知ってる」
 と訊かれたら、あなたならどうするだろう。今がもし、一九八〇年ならなかなか鋭い質問だ。一九九五年だったらまあちょっとマニアック、というところか。一九九九年だとありふれた話題かもしれない。でも、西暦二千年二月一三日にする会話じゃないと思うのだ。
「え、二千年、うん、つまり」
 いや、本当のところ、あなたならどうするか、なんて質問はやっぱり愚問かもしれない。今までの会話になんの脈絡もなく、こういうとっぴな質問をされるというのは、今私の目の前でスパゲティを巻いている彼女の周囲、幸いにも私がその一部だと見なされている彼女の狭い交友関係だけに課された義務というか、与えられた特権というか、とにかくそういったことだからだ。

「…二千年問題っていうのは」
 と言いながら私は目をあさっての方向に向けた。彼女がそんな私のほうをじっと見ているのを感じる。ううっ、なんだろうか――このプレッシャーは。なにか、気の利いたことを言わなくては、という。私は、レストランの壁につるされた、意味のわからない模様のタペストリーに視線だけを飛ばしながら、必死で自分の内側を探った。そこになにかいいことが書いてないものかと。
「西暦の下二桁を年号として扱っているコンピューターが、西暦二千年の訪れとともに誤作動を起こすとされる問題、のことかな」
「うん」
 時間切れで苦し紛れに、昨年末ニュースでよく聞くようになった決まり文句を一気に暗唱した私に、彼女が間髪入れずに応えたので、私はほっとするやら悔しいやら複雑な気分だった。

「で」
 スパゲティをぱくぱく食べている彼女に、私は言った。
「で、それがどうしたの」
 少しの「間」。手元に取ったスパゲティを食べてしまって、それからワインを一口飲んだ彼女が、やっと答える。
「この前ね、百円ショップに行ったの」
「うん」
 と相づちを打ちながら、私も、なんだか手持ちぶさたになって、ワイングラスに口をつけた。あれ、空だ。
「そうしたら『二千年問題について』なんて貼り紙が、あったのよ」
「ほう」
 二千年の元旦を大人として迎えた人の大部分の感想は「なんだよ、二千年問題なんて起こらなかったじゃないか」ではないかと思う。しかし、それは実はたいへん近視眼的な物の見方なのである。確かに、二千年を境に水道ガス電気が止まったり、発電所が爆発したり、ミサイルが飛んでくるなんてことはなかった。しかし、もっと目立たないあちこち、主に経理や通信に関連する場所で、徐々にいろいろな問題が発見されているのも確かなのだ。
「なんでもね、二千年問題で、その百円ショップで使っていた、今までの経理ソフトが使えなくなったんですって」
「ははあ。ひと月たってから、わかったんだろうね」
 月末の決算をしようとして、初めて使っていた経理ソフトが二千年問題に対応していなかったことがわかった、ということは、よくあることなのだろう。
「うん、そうだと思う。で、新しいソフトを導入したんだけど」
 と言いながら、彼女はテーブルの上のデカンターから、私のグラスに赤ワインを注いでくれた。このへん、私と彼女の間では、明らかに日本酒やビールと同じルールが適用されてしまっているのだが、イタリア料理店でこれをするというのはどうなのだろう。まあ、私が気にしなければ、それでいいのかもしれない。

 彼女は続けた。
「そのソフトが、内税方式を受け付けなくって、どうしても本体価格と消費税を別に入力する必要があるって」
「はあ」
 それはまた、いいかげんな解決策をとったものである。
「それで、今まで内税でやって参りましたが、二月一日からは外税方式にして、消費税をいただかなければならなくなりました、って」
「便乗値上げってやつじゃないか、つまり」
 彼女は、二人で食べ散らかした結果、何とも言えない状態にあるメインディッシュの魚料理から、もう少し自分の皿に取ると、笑って言った。
「そうみたい」
「しかし、そんなにくどくどと、説明しなくてもいいと思うがなあ」
 私も笑う。うん、このワインはおいしい。ところで、メニューの選択は、レストランに任せたのだが、魚に赤ワインって、これで良かったんだっけか。
「本体価格を、えーと、九五円にすればいいのに」
「半端が出るのが、嫌だったんじゃないかと思う」
 なるほどそうかもしれない。本体九五円だと消費税は四・七五円。少し半端が出てしまう。本体百円、消費税五円の方が、実際かなり素直な帳簿にはなるだろう。便乗値上げであることには、かわりはないだろうけど。

「で、どうしてこんな話、したと思う」
「さあ、さっぱりわからない」
 ワインにまた口をつける私。彼女は、鞄を探ると、板チョコを一枚取りだした。
「はい、これあげる」
「ありがと、って、おい」
 それは、まったく、何の変哲もない板チョコだった。無印良品というか、料理の原材料にするような、袋の中でもう大きな塊になって割れている板チョコである。しかも、なんの包装もされていない。
「消費税込み、一〇五円のチョコレート。バレンタインおめでとう」
「…」
「ちょっと形がわるいけど、許してね」
「…それは普通、手作りのチョコに添える言葉だと思う」
 それでも受け取ったチョコレートを、大事そうに自分の鞄にしまう私を、最近ちょっといない、なかなか見どころのあるやつだと、自分でも思っている。


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