カセットの中の灰と青春

「フリッツマイヤーさんでしょう。『霜のフロストフリッツ』」
 声をかけられた男は、薄汚れたテーブルに突っ伏した顔をうるさそうに上げて、投げ出すように答えた。
「だとしたら。今ごろこの飲んだくれに、何の用だ」

 喧騒に満ちているべき酒場の、もっとも暗い一角、古びてわずかにかしいだテーブルに、その男はひとり陣取っていた。馬小屋の臭いの染みついた灰色のローブはどの属性のものとも伺い知れず、テーブルの上にはとうに飲み干されたエールのジョッキ。フードの奥からのぞく酔眼のどこにも、高レベル魔術師が持つ鋭さは感じられない。好意のかけらもないフリッツの声音に、彼のことを尋ねたバーテンダーの表情の意味がいまようやくわかったとばかりに、話しかけた若者たちは少したじろぐ。

「偉大なるあなたに…教えを乞いたく、やって来ました。この『試練場』での心がけを。かの悪の魔法使いを、いかに倒すかを」
 それでも、意を決したように、リーダーらしき戦士が言葉を継いだ。その真新しい胴鎧の輝きを見るまでもなく、たった今訓練所を卒業したばかりの、ほやほやの新入り冒険者だ。かつては毎日のようにここを通過し、深く暗い迷宮の中、野望を、未来を、青春を散らしていった冒険者たち。
「酒だ」
「なんですって」
「酒を一杯、奢ってもらおう。話はそれからだ」
 仏頂面を崩さずそう言ったフリッツ。思わず顔を見合わせる若者たち。どの顔も若い。ほんの一五、六に見える者もいる。若さの特権たる率直さ、というべきだろう、最後尾に控えた女魔法使いなど、あからさまに顔を歪めて嫌悪感をあらわにしている。今にもきびすを返し、立ち去りそうに見えた僧服の仲間を制して、リーダーの戦士は押さえた声で言った。
「いいでしょう。僕たちもあまり持ち合わせはありませんが。デュナン、みんなにエールを」

「まず、これだけは言える。お前達が考えるべきことは、『悪の魔法使い』を倒すことなんかじゃない」
 ジョッキに注がれたエールを一気に半分もあおったフリッツは、居心地悪げに椅子に腰掛けた若者たちに向けて、そう言い放った。
「とにかく生き残って経験を稼げ、そういうことですか」
 そう言ったリーダーの目の前で、ひらひらと指を振って見せて、フリッツは笑った。ひどく意地の悪そうな、嗤い。
「違う違う。そうじゃない。こういうことさ。ワードナは、そう、十五年も前に倒されちまってるんだ」

 ――狂王の試練場。この奇妙な名で呼ばれたこの迷宮が、いつどのようにして生まれたのか、古株の冒険者の一人、フリッツマイヤーにもわからない。フリッツの前に既に十人近い冒険者が、この地下迷宮に挑み、迷路の奥に巣くうモンスターたちの前にあえなく敗れ去っていた。屈強なドワーフの戦士アルバス。美しい僧侶ミリアムレイ。フリッツの属するパーティが不名誉な全滅から、半死半生とはいえ、逃れえたのはまったくの偶然に違いない。陽気な戦士ツヴェルク。いつもぶつくさ不平をこぼしていた司教ウォルフ。共に戦ったあるものは突然の死から二度と戻らず、しかし新たな仲間を迎えて探索自体は続いた。引っ込み思案で無口な盗賊ボウルガード。謎めいた東洋の剣士ムスク。徐々に、ほとんど知覚できないほどわずかずつながら、彼らは新たな敵を乗り越えるたびに力と経験を増し、宝箱を開けるたびに金貨と強力な魔法の装備を手に入れ、ひたすらに迷宮の深みを目指した。尊大でもったいぶった君主オックスバッシュ。けんかっ早いが情にもろい忍者ボルティグル。地図の空白は埋められ、新たな仲間達は増え続け――そして、ついにその日がやってきた。彼らが、地下十階のあの部屋のドアを蹴り開けるその日が。

「それで、それからどうなったのです」
 リーダーの青年が、長いようで短い物語を中断し、考え込むように言葉を切ったフリッツを促した。
「いや、どうにも」
 またもひらひらと、気のない様子で手を振るフリッツ。
「どうにも、って、どういうことですか」
 と、これはパーティの、もう一人の戦士。おそらく、装備を調える費用が足りなかったのだろう、彼は鎖かたびらなどという中途半端な防具に身をつつんでいる。
「どうにもならなかったよ。俺達は、ワードナと側近をなんとか倒した。ま、俺は出合い頭にティルトウェイトを喰らってあとは死にっぱなしだったけどな」
 フリッツは、そこでエールを飲み干してしまうと、恨めしそうな目つきでジョッキの底を眺めて、言葉を結んだ。
「『魔除け』を持ち帰った俺達は、形ばかりの式典と、はした金の賞金と、近衛兵の腕章をもらった。それだけだ」
「それだけ、って、それ以上なにが。十分じゃないですか」
 そう口を挟んだ戦士をねめ付けると、フリッツは面倒くさそうに口を開いた。
「それだけさ。迷宮から怪物はいなくなったか。いなくならない。近衛兵になったら何かいいことがあるのか。なにもない。名誉と富はどこに。どこにもありゃしない。倒したはずの、ワードナにすら出会えるんだ。新人が行けばな」

 それきり、疲れたように目を閉じ、ほおづえの上で眠り込んだフリッツを見限って、ついに女魔法使いが席を蹴って立った。
「行きましょう。時間のムダよ」
 何も言わず、うなずいた僧侶が雷同する。それを皮切りに、次々に若者たちが席を立ち、やがて最後尾になったリーダーがフリッツをひと目だけ振り返って、酒場を出てゆくと、フリッツは目深にかぶったフードの下から、酔いのかけらも見当たらない、冷え冷えとした視線を酒場の扉に注いで、誰に言うともなく、こう言った。
「むろん、楽しみはそこから先にあるのだよ若人たち。だが、さてもさても」
 生あくびを一つして、フリッツはかぶりを振る。
「バックアップバッテリーも切れているというのに、彼らの冒険がどこまで続くやら」

 ファミコンの古いカセットには、こういうことがある。かつて世界を維持していたバックアップ機能は、内蔵電池の消耗により、もう働かない。冒険の結果は、ファミコンのスイッチを切ると、消えてしまう。そして。
「かの冒険の日々も、集めた秘宝の数々も、一炊の夢、か」
 かつての強力な魔術師フリッツマイヤーの、他の英雄達と同じく今はデータを失った霜のフリッツの、歌うような声が、いつまでも、うつろな酒場にこだましていた。


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