二回唱えろ

 中学校の教科でいうと理科や数学に代表される自然科学には、その根本に一般的な法則があって、それが検証可能な正しさをもっているという点に立脚して体系がかたちづくられている。一方、国語や英語にも文法というものがあるが、これも一種の法則である。書かれ、しゃべられている言葉の個々の事例から法則を見つけ出し、一般化するという努力が行われていて、一種の科学であるといえなくもない。

 ただ、大きく異なるのは、自然科学と語学の法則は、ともにある制限下のもとでは(たとえば、三角形の内角の和は「三角形の各辺が正確に直線でかつ平面の上に描かれている場合に限るという制限のもとで」180度に等しい、というような)正しいのだが、語学の場合、その正しさが、時を経るにしたがって曖昧になってゆくことである。対象がラテン語のような死語でないかぎり、言葉を研究する学問は、常に対象が変化しつづけているという、実にやっかいな学問なのである。

 たとえば、ある言葉が正しいかどうか、文法的に間違っていないかどうかというのは、ある程度広く認められた基準というのはあるに違いないのだが、非常に微妙な部分について、本当にどんな場合でも正しいとか、間違っていると判断できる基準があるかというと、そんなことはないような気がする。最終的には多数決によって決めなければならないものかもしれない。

 中学生のとき、文法で接続詞について学んでいた私は「だがしかし」という言葉についてどうしても疑問を捨て切れず、国語の先生に尋ねたことがある。どうだろう、たぶんあなたも、逆接を強調するような意味で「だがしかし」という言葉を見たことはおありではないだろうか。私に関して言えば、自分自身ではたぶん使ったことがないとは思うのだが、どこかで一度ならず目にしたことがあるように思う。当時の国語の先生によれば、そんな言葉はなく、どこかで目にしたことがあるとしてもそれは間違った言葉が書かれているのであって、正しいわけではない、ということであった。

 それ以来ずっとわだかまっていて、読んだ本や漫画に「だがしかし」がでてくるたびに気にしているのだが、やっぱり使われている例は多くはなく、また出てきた例もあまり上品なものとは言えないイメージが強い。結局は先生の言うとおりであったような気がする。が、ある言葉が間違っているかどうかが多数決によるしかない、という私の考えが正しいとするならば、将来にわたってそうとはいえないのは、当然のことである。言葉は変化するのだ。

 さて、こうした「間違った言葉」の例でもうすこし有名なものに「あとで後悔する」というのがある。後悔というのは、もともと後になってするから「後」悔なのであって、後で後悔するというのは後が二回続いて馬から落ちて落馬するようなものであるということだ。確かにそうなのだが、たいへんよく使われているような気がするし、頭痛が痛いのような他の重複表現とも、ちょっと違う気がするのだ。

 だいたい、悔やむということが、そもそも先に立つものではない。何か自分の行動を間違っていると思い、反省するということは、行動の後にならないとできないのだ。先に悔やむ、先悔という言葉はないのだから、後悔の「後」がすでに言葉として意味がダブっているのではないだろうか。
 行動と同時に悔やむ場合、たとえば皿を落として割ってしまったというような場合、私たちは「後」になってではなくその場ですぐに悔やむから、これは後悔とは言えない、という理屈も一応考えられるが、そんな場合でも私たちは後悔という言葉を使わないかというと使うわけで「後悔」と「悔やむ」の間に意味の差がほとんどないことが、説得力を減じているように思う。

 たとえば、こんな状況を考えてみよう。チェスのような競技を毎日一手ずつ指している二人がいたとする。あるとき、一方のプレイヤーナガシマくんが妙手を打って、他方のプレイヤーノムラくんが思わず唸ってしまった。しかし、ノムラくんは冷静になってよく考えてみて、ナガシマくんの手にたいへんな弱点を発見する。このまま行けば、明日にもナガシマくんの王を詰める重要な逆転の一手を指すことができる。ノムラくんはにやりとナガシマくんに笑いかけ、こう言うのである。
「明日、後悔させてやるぞ」
 この言葉は、まったく間違っているように思われない。明日になれば、そのとき初めて、ナガシマくんは今日の妙手(に見えた手)のことを思いだし、後悔するのである。では、その逆転の手が三日後になりそうなら、どうだろうか。
「三日後になって、後悔することになるぞ」
 まだ大丈夫そうである。明日や明後日は、まだナガシマくんは後悔していない。ナガシマくんが後悔するのは、三日後である。では、ナガシマくんの王が三日後に詰むとはちょっとまだいえないほど先だけれども、この妙手を先々ナガシマくんが思い出しては悔しがるような、とんでもない逆転の一手をノムラくんが考え付いたとしたら、どうか。
「いつだかわかんないけど、あとで後悔させてやるぞ」
 こうなるのではないか。そしてこれは、批判される「あとで後悔する」という言葉の、正しい用法であると思うのである。

 とうわけで、今回の推論が、みなさまの精神の小腹を満たす糧に少しでもなることができたら、この雑な雑文の存在意義も存在することになる。では、大西の大西科学における最近の研究内容の最新作、次回を楽しみにCheck it out。シーユー、またお会いしましょう。


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