三六五二五回の明け暮れ

 みんなでランニングをしていたとする。どうして走っているのか、しんどいじゃないか、と思うのだが、まあしんどいんだけど、グラウンドをぐるぐるとひたすら走っているのである。走っている人数は一定ではない。あるものはもう走れないとばかりにその場にへたり込み、またあるものは、どこかから遅刻してやってきて、やあやあとなれなれしく集団の中に入ってくる。

 なにしろランニングはつらい。大部分の者は、とにかくあと一周走ろうと、何も考えずにうつろな目を中空にさまよわせながらぼうっと走っている。それでも、中にはきちょうめんに自分たちが今何周グラウンドを走ったかちゃんと数えている者もいて、そんな一人が、走りながら、ふとみんなに言う。
「おい、もうすぐちょうど百周目だぞ、あと、十周ほどだ」

 みんなの意気は上がる。別に百周走ってもこのランニングは終りではないのだが、とにかくランニングというのはヒマなものであるから、グループは百周走ったら、という話でもちきりになる。百周も走れば夢のような生活が待っている、と根拠のない予測をするやつ、俺達は百周は絶対に走れない、なぜかといえば九九周でこのランニング全体が終りになるからだ、とこれまた根拠のない予言をカマすやつ、とにかく騒ぐやつ。そしていよいよ百周目、みんなが同時にホームストレートを進むにあたって、こんな事を言いだすやつが出てくるのだ。
「なあ、この百周、どこが一番辛かった」

 さっきも書いたように、ランニングというのはこれでヒマなもので、区切りにあってなにか盛り上がる質問をしたい気持ちはよくわかる。しかし、冷静になって辺りを見回すと、その場にいるのは、ほとんどこのランニングを途中からはじめた者ばかりなのだ。メンバーの入れ替わりはけっこう激しく、この百周の最初からずっと走っていた人間はほとんどいない。百周の最初の一周を走ってなどいなかった人間が、やはりここ三〇周ほどしか参加してない者たちに、感想を聞くわけである。

 私がこの世紀末にあたって抱いた感想はというと、だいたい上記のごとしである。私たちは、さも、自分たちが作ってきた二〇世紀、という顔をしてしまうが、これは嘘ではないにせよ、自分たちがどちらかといえば二〇世紀ランニンググループの新参者であるのは確かである。そう考えると、二〇世紀の一〇大ニュースは、とか、二〇世紀ベストナインを選ぶとしたら、などという質問には、気恥ずかしくて答えられるものではない。

 私は西暦一九七一年の生まれだから、私がまあ、平均寿命まで生きると仮定すれば、あと五〇年、二一世紀の半ばまでは生きられる望みがある。人生を俯瞰してみると二〇世紀よりも二一世紀のほうが長く生きる計算になる。つまり、私周辺の年齢からそれより若い人々は、どちらかといえば二一世紀にその主な活動を行った、と歴史に記録される、二一世紀人なのである。知らなかったでしょ。

 というわけで、百周目を過ぎて、ランニングはまだ続いてゆくのだ。とりあえず、新世紀おめでとう。来世紀もどうぞよろしくお願いいたします。


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