運命の八文字

 なにごとにも「様式」というものがあるもので、たとえば回転寿司屋では、座席に座るとまず湯飲みとお茶のパックが置いてあって、これとガリは取り放題になっているのが様式である。お茶は申告制、ガリは有料、としても別にそれでかまわないはずだが、取り放題になっていない店は見たことがない。もっとも、あるとき静岡で回転寿司屋に入ったら、壁にこんなことが書いてあった。
「原価高騰中のため、ガリは食べられるだけ取って下さい」
 はじめこれを「んもう、食べられるだけ食べちゃって下さい原価はそりゃまあうなぎ登りなんだけどお客様へのサービスなんスからガリごとき好きなだけ高騰したらいいのですどうぞどうぞ胃袋の許すかぎりハラいっぱいどうぞ」という豪毅な張り紙なのかなあ、と見ていた私は、本当の意味に気がついて軽い逆転の感覚を味わった。なるほど「食べられない以上に手元に取って残されては困る」ということだったのか。なんだよコラ寂しいこと言うなよオイ。

 とはいえ、ガリは無料には違いなかったわけで、それがやはり様式美というものなのだろう(ちなみに、先日数年ぶりに再訪したらガリはまだ「高騰」していた。どうなっているのか。天井知らずか)。決して人ごとではない。様式は知らず知らずのうちに各人の行動を支配するものであり、それは新たに何かを始めようとしたときに特に顕著になる。釣りやゴルフの初心者は「典型的な釣り師」「典型的なゴルファー」の恰好をしているものだ。自己紹介と日記とリンクと、掲示板とアクセスカウンターだけが備え付けてあるホームページは相当の数にのぼるのではないだろうか。

 さて、ホームページなら個人の趣味だからいい。町内会の会報や高校、大学校内の新聞部が作るような、いわゆるミニコミ誌になると、当番の者がイヤイヤ作っているのではないかと思えてならないのだが、何とも言えない厭世観が行間から透けて見えることがある。記事の文章がどこかで見た文章だったり編集後記が妙に投げやりな「今月は一人で一〇ページ書いたぜイェーイ。今午前五時だぴょーん」などという調子であったりするのだが、ここに様式の神が降りてくると、この疲れた編集子にはどう考えても越えられそうにない新たな試練が課されるわけである。様式の名は「巻末クロスワードパズル」だ。

 クロスワードといっても、専門誌に載っているような大げさなものや、新聞の日曜版に載っているような上品なものとは違う。「巻末クロスワード」は、ただ巻末を飾るために作られ、様式を完成させるためにのみ、読者に向けて放たれるものである。様式であるから、大切なものは白黒パンダに塗られた正方形とタテ組ヨコ組で書かれた「カギ」の文章、それのみであって、パズルとしての完成度は度外視される。なにしろ様式なのである。巻末につきものの「模様」なのである。解いてみようなどと思うほうが間違っている。

 というようなことを考えたりしながら、2001年のお正月、私は実家のちゃぶ台の上に放り出してあった「公民館だより」の巻末クロスワードの前ですっかり考え込んでいた。解けない。さっぱり解けない。公民館なにするものぞ、さしたるヒマつぶしにもなるまいがと勇んで解きはじめてみれば、そこにいたのは猫ではなくトラだった。大トラだった。

 11のタテ;ある場所・地位にいるときの気分や感じ。
 15のタテ;ふつうと違って変なさま。
 16のヨコ;白米をほして粉にしたもの。

 もとより小さなクロスワードで、解いたからといって別に賞品があるわけでもない。だから様式だと言うのであるが、解けないというのは予想外である。こいつらは、なんだろうか。いくら考えてもわからない。それでも、クロスワードパズルの常道、周囲から埋めていって、なんとか「11のタテ」が「い*こち」だということがわかった。あ、つまり「いごこち」だこれは。

 わかった。このクロスワードの製作者ときたら、カギを考える手間を惜しんで、解答の言葉を辞書を引いて説明を丸写しにしているのである。苦心惨憺、15のタテは「きい」(つまり「奇異」)、16のヨコは「しんこ」だとわかったのだが「しん粉」はともかく、「きい」はどうして「現在の和歌山県」ではいかんのか。こんなヒントじゃわかるわけがないじゃないか。

 ところが、真の苦悩はこのあとやってきたのだった。パズルを解き終えて、二重のシカクの中に入った文字を組みあわせて解答となる一つの言葉をつくるという、普通のクロスワードではほんの余技に属する部分である。なんと八文字もあり、しかも「そろそろそういう季節ですね」みたいなヒントがない。出てきた文字は「セ」「ユ」「サ」「ケ」「ツ」「ン」「シ」「ー(のび棒)」だが、これをどう組み合わせたらいいというのか。私は、あまりにもわからないので、それぞれの文字を書いた小さなカードまで作って、あらゆる組み合わせを試してみた。途中からは、ついに節を屈して弟にまで助力を乞うた。

 いわく、

「せーけつ新種」 (きれい好きな新しい品種が開発されたイメージ)
「産油しゅーけつ」(産油国が集結しているイメージ)
「三種けっせー」 (三種ワクチンの血清のこと)
「輸血させーんし」(輸血はさせないわよ、と意地悪につぶやいてみる)
「三枝、輸血せー」(桂三枝に向かって輸血を命令している)

 なんだか、周期表でも覚えているような有り様である。いくらなんでも、これが解答であるはずがない。そもそも、清潔は「せいけつ」であって「せーけつ」ではない。のび棒を使うには何か外来語を作らなければならないのだ。

 三人分の頭脳がこうした推理を行って、どうやら「センサー」は動かせないということがわかった。残りの文字を使って言葉を作ってみると「血腫」だろうか。「血腫センサー」。そんなものがあるとはどうしても思えないが、なにしろ「しん粉」の作者である。彼の疲れ果てた頭脳のどこか薄暗い片隅で、血腫センサーが大人気なのかもしれないではないか。ああ、もうこれでいいやいいや。

「なあ、気になっとったんやけど」
 九分九厘「血腫センサー」で最終結論を固めかけていた私に、そう口を挟む者がいた。
「これ『ケラ』やのうて『カラ』とちゃうかなあ。もし『ケ』のかわりに『カ』やったら、『サッカー選手』になるねん。ほら」

 「ケラ」というのは、19のタテだ。ヒントはただ「すっからかん」とある。二重シカクの中の「ケ」は他の言葉に使われていないので、これが「おケラ」の「ケラ」ではなくて「カラ」という可能性は確かにある。あるのだが「すっからかん」で「から」なんてそんなバカな問題があるだろうか。これでは「インド」のヒントに「インド象の故郷」と書くようなものではないか。ヒント「超ムカツく」の答えが「むかつく」。そんなことでいいのか。

「これ、当たったら何がもらえるん」
「いや、何ももらえない。答えは、ええと、次号で発表かぁ」
「あれ、これ、古いやつやから、もう新しいやつが出とるんとちゃうかな」
「あ、なるほど、そうだな。探そう」

 幸いにして、探すことしばし、次号が見つかった。そして答えは……「サッカー選手」だった。

 編集子との心理的駆け引きの様相をも帯びた灼熱する戦い。二一世紀は、巻末クロスワードが、熱い。


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