きゅきゅきゅきゅ

 人間が人間であるゆえんとして、理性で本能を抑えていると言いつつも、やはり動物以外の何物でもない部分があって、たとえば痛みを伴った経験の記憶はなかなか忘れない。

 今から「痛かった話」をするので苦手な人は目を塞いでいて欲しいのだが、あるとき、缶入りのミートソースを使ってスパゲティを作った。食べ終り、ミートソースの缶を捨てるにあたっては、やはり缶を簡単に洗っておかねばならぬ。私は水道の水流に空き缶をさらして残ったミートソースを流し、残りを掻きだすために指を突っ込んでくるりと缶の内側を撫でた。と、気がついたことには、この缶はプルトップで開ける形式であり、缶のふちはいわば鋭利な刃物になっていたのである。するどい痛みとともに、人さし指の付け根の周りに、くるりと一周、切り傷ができていた。

 それ以来、どうもミートソースの缶を見るたび、この恐ろしい記憶を思い出して脅威を感じる。その時の傷は跡もなく治ってしまったし、今も缶詰めを食べられないかというとそこまでは行かないので呑気なものだが、この傷のエクスペリエンスは、心のどこかに、抜き難く突き刺さったトゲとなっているようだ。

 痛みと並んで根源的な感覚として、嗅覚があるそうで、懐かしい匂いを嗅ぐと、忘れていた昔の記憶が鮮やかによみがえるという経験は誰にでもあると思う。匂いほどではないが、音にもそういうところがあって、テレビコマーシャルの最後に挿入されるメーカーの名前は、これを「サウンドロゴ」と呼ぶらしいが、実に懐かしい記憶を呼び覚ます。「てゅーてゅっ、てゅーてゅっ、おーさっか、が、す」とか「きょせんの、くいずだーびー(がっちゃっ)」とか「ほんわかほんわっ、ほんわかほんわっ」とかそういうものであるが、一般に警報装置の音というのは、非常事態と直結して覚えているからか、記憶に残りやすい。

 警報装置というのは、非常ベルのようにその機能しかないものもあるが、他の装置に組み込まれた、ユーザーに注意を求めるための音を発する機械、というふうな意味でもある。そもそも設計者が「ここで『音でお知らせ』機能が欲しいなあ」と思ったとして、わざわざこのために音を出す機械を設計しなければならないと大変なことなので、必然性がなければ、警報装置はそのとき手に入る適当な発音装置をもってきて、組み合わせて使われることが多いと推察される。たとえば、電話の呼びだしにベルが使われているのは、あの「じりりり」と鳴るベルが、電磁石とゴングがあれば簡単に作ることができるからだろう。サイレンも、原理は知らないが手で取っ手をぐるぐる回してやると「うー」と鳴る発音装置が手近にあって、それが利用できたからではないだろうか。

 電子レンジの出来上がりを知らせる音は「ちん」というベルの一点鐘で、「ちんする」とは電子レンジで暖めることだと広辞苑にも載っているくらいだが、あれもおそらくはたまたま、当時ベルが一番安い発音装置だっただけで、事実、ワンチップで簡単に電子音が出せるようになった現在、すっかり電子音に置きかわってしまった。ベルを搭載したりすると、逆に余計なコストがかかるせいだろう。「ちん」と鳴る電子レンジを使ったことがない人も今や多いはずで、せっかく載った広辞苑だが早晩この表現は消えるのではないか。

 この、ワンチップで手間入らず実装、という経済効果は相当大きいらしく、先ほどの電話をはじめ、目覚まし時計など「音を立ててナンボ」という製品でさえ、芸のない電子音が多く、和音機能などさらなる高音質への挑戦は相応の年数を必要とした。面白いのは携帯電話で、最初は電子音による呼びだしだけが用意され、物理的な振動を行う「バイブレーター」は付加価値的な特殊な機能である時代が、しばらくあった。今ではバイブレーターは小さなモーターに偏心した錘がついたものとして、これはこれでユニット化され、現在は普通に搭載されている。

 玄関に設置される呼びだし装置も、これは「ぴんぽん」という音で有名だが、ある時代、ブザーが一般的だったことがあった。パーツ屋に行けばコンパクトにユニット化されたブザーが販売されており、電池に繋ぐとあの音で「ぶー」と鳴るのだが、これが安く供給され、製品に組み込まれていたのだろう。ベルでは電話と間違う、という事情もあったに違いないが、ブザーはベルより簡便な発音装置として家電製品の警告用にも広く使われた時代があって、たとえば私の生家にある「もちつき機」は「蒸し上がり」の合図にこのブザーが使われている。

 さて、ブザーと同様の簡便な発音装置なのだが、高い音で「きゅ、きゅ、きゅ、きゅ」と鳴るものがある。非常に狭いコミュニティにだけ通じる話をすることになるが、私が始めて実装されているところを聞いたのは、大学の研究室で使う「ビン電源」という電源装置だった。そういう、測定用の電子回路を組むための電源供給装置があるのである。電源の能力を超える回路を繋いでしまったりしてブレーカーが落ちると、この電源の警報装置が「きゅ、きゅ、きゅ、きゅ」と鳴る。実験者は慌ててスイッチを切り、負荷を軽減してから、再起動するわけである。

 ところが先日、レストランで夕食をとったとき、厨房のほうからしょっちゅうこの「きゅ、きゅ、きゅ、きゅ」が聞こえてきた。レンジか皿洗い機のような、なんらかの装置の「できあがったっス」通報に使われているのだろう。ビン電源とは縁もゆかりもなく、ただ同じ音源が使われているというだけであるが、ご飯を食べている間におよそ十回ほど「きゅ、きゅ、きゅ、きゅ」という音がした。私は「この音が出たら慌てて電源の調子をみなければ実験がエラいことになる」という意識が刷り込まれてしまっているので、わかっていてもそのたびにそちらを見てしまうのである。実に、落ち着かないレストランだった。

 それで思ったのだが、誰でもこういう「弱い音」というのがあって、その音源を使って目覚まし時計を作れば、相当強力な目覚ましになるのではないかと思う。私にとってこの「きゅきゅきゅきゅ音源」がそうであったように、人生の一時期、恐怖を伴う経験と共に聞いたとか、痛みを伴うくらいわずらわしいものであったとか、そういう音である。残念ながらしばらく使っていると慣れてしまって目覚ましにならなくなるかもしれないが、そういう音を相当数コレクションしておいて試聴してもらい、いざというときの目覚まし音としてインターネットで配信するサービスを作れば、便利かもしれない。

 キャッチフレーズは「あなたを撃退する超音波」というのでどうか。やっぱり、ダメか。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む