魔弾の射手

 先日、仲間内でボウリングをやっていて、突如として自分が、「狙う」という技術に目覚めたことに気付いた。その時の感覚を説明するのは難しいが、修練を重ねて徐々に上手くなってきたのではなく、天啓のようにふと投げ方のコツを掴んだとしか言いようがない。私が投げたボウリングの玉は、何度投げてもまっすぐにピンの狙ったところに当り続けた。正確には覚えていないが、連続して五、六回は、投げるたびにストライクを取ることができたと思う。普段の私のスコアは「今日は『大西の日』だったんじゃないか」というほどうまくいってさえ一五〇、平均すると一二〇くらい、悪くすると百に届かない、という惨憺たるものだから、私はまるで自分が「大西2(ツー)」となって甦ったような気分だった。「大西1」はどうしてあんなに下手だったのだろう。

 余談になるが、連続五ストライクというとそれだけで一二〇点だから、全体ではかなり高得点が期待されるところなのだが、残念なことにそうは問屋がおろさなかった。その時、私は妻とペアを組んでのチーム戦の真っ最中であり、しかもたまたま、その時に妻は十年に一度ほどの絶不調の底で喘いでいたからである。投げても投げてもピン一本さえ倒せないような、大不調である。交互に投げるルールなので、私がストライクを取ると、必ず妻が第一投を投げることになる。ガター、ストライク、ガター、ストライク、ガター、ストライク。こういうのはストライクとは言わない。連続スペアであって、しかも次の一投がゼロ本だからスペアの意味はまるでない。フレームごとに正確に一〇点ずつ増えていくスコアボードを見て、自虐的な笑いを浮かべる私なのだった。

 さて、ボウリングに限らず「狙う」という技術をキーポイントとしている競技は他にもあるが、「狙う」とはいったいどういうことなのだろうか。「狙う」技術が水もので、まぐれ当たりがある類のものであることは確かである。たとえば、私がどんなに調子の波に乗ったところで、陸上競技の選手とその競技で対戦して、百に一つも勝ち目はないだろう。しかし、ボウリングなら、このときの私のスコアは(もし一人で投げていたとしたら)プロ級とまでは言わないまでもかなりいいところまで行っているはずである。ボウリング、ダーツ、ビリヤード、アーチェリー、射撃(ところで、こうして並べてみるとなんとなく「温泉」という単語が脳裏に浮かぶ)といったスポーツでは、程度問題ではあるが、時に実力とかけ離れたよい成績を残すことができる。だからといって運動の定義から外れてしまうかというと、修練が必要だという点でやはりスポーツとしか言いようがないが、遠投などの陸上競技とはゲーム性が異なると言えるだろう。

 スポーツではないが、大砲で遠くの相手を狙う場合、まず「試射」という作業を行うそうである。一発撃ってみて、目標からどれだけずれていたかを観測して、それに従って方角や距離を修正する。目標に当たるようになったら他の大砲と一緒になって本気で射撃をはじめるのだが、もちろん試射を行った大砲も含めて、全ての砲弾が同じ場所に落下するわけではない。風の影響や砲身の摩滅、砲弾や発射火薬のばらつきによって、撃った砲弾は目標の周辺のある範囲内に散らばって着弾することになる。狙いたいマトがこの範囲に比べて小さい場合(たとえば艦船同士の遠距離砲撃戦など)うまく相手の周りに砲弾が落ちるようになってからも、なかなか実際には命中しないのだが、撃ち手にできることはこれ以上なにもない。あとは確率に従ってうまく当たるまで撃ち続けるしかないのだそうである。

 要するに、大砲で物を狙うときは、どんなに狙ってもある程度の不確実性(集弾率、グルーピングという)がある、ということである。一発撃ってマトに当てるには、砲身が正しく相手に向いているだけではなく、精度が高く、ばらつきの小さい大砲でなければならない。人間が物を投げる場合にも、この二つの要素は作用しているはずである。すぐれたピッチャーには、投げたボールが小さい範囲に収まるようにする能力と、その範囲の中央にいつも目標をおさめられる能力の両方が必要になる。

 人間が物を投げるときの精度はどのくらいだろう。たとえばボールを投げて、18メートル先にある、20センチ四方の的を射貫く競技を考える(いわゆる「ストラックアウト」をイメージして欲しい)。ボールを狙った場所に当てるということは、要するにボールに正しい方向への運動量を与えることにほかならない。後ろに振りかぶった状態から、ボールと手が離れる瞬間まで、手とボールはおよそ1.5メートルほどの距離を一緒に動くことになる。狙ったところに玉を当てる技術は、一つには、この振りを正確に繰り返す能力であると言うことができるだろう。

 たとえばここに、1.5メートルの砲身を持つ「ボール砲」があったとして、これで同じ的を射貫くとする。砲身の先はどのくらいの精度で的に向いていなければならないか。計算すると、許される誤差は8ミリとなった。この数字を見ると、思ったよりもアバウトでもちゃんと的に当たる印象である。ところが、実際には「ストラックアウト」競技は、プロ野球の投手でもよほどの幸運に恵まれないかぎりパーフェクトは難しいようである。人間の腕の振り抜く運動にはこれほどの精度がない、ということではないかと思う。いま、試しに手を挙げた状態から一気に振り下ろしキーボードの「G」のキーを押す、ということを何度かやってみたが、確かにうまく「G」を叩くのは難しい。精度八ミリというのは並大抵ではないようだ。

 さて、もう一つの問題は、少なくとも「狙ったところの周り」にいつもボールが当たる、ばらつきはばらつきとして確率的にいつもマトの周りに当たるように投げる技術ということになるが、さあ、これはよほどの「迷手」でない限り解決されている問題のように思う。上の「ばらつきを減らす」練習をするうちに自然と訓練されるもので、ずっと簡単であるように思えるのだ。少なくとも野球において「もう少し右を狙えばいいんだな」という調整のしかたをすることは、あまりない。

 例外として、架空の話の、しかもマイナーなエピソードで申し訳ないが、ルパン三世のアニメの一話に、次元大介(ルパンの相棒で拳銃の名手)はトレードマークの帽子がなければうまく的に当てられない、という話があった。目深にかぶった帽子の鍔の先を補助にして狙いを定めるので、帽子が無いととたんにうまく狙えなくなってしまうのだ、という説明である。先ほど説明した第一の点、拳銃が持っているはずの集弾率を無視して第二の点だけの問題に帰しているわけだが、確かに射撃競技となると精度はもはや機械まかせであり、もし非常によく整備された、ばらつきの少ない拳銃があるなら、第二点は大きな問題となるのだろう。

 ところで私のボウリングだが、このあと、隣のレーンに移って第二回戦をはじめたところが、先ほどのゲームで発揮した神がかった技術がまったく発揮されなくなってしまった。どうも私は、ボールを投げる自分の右側に、あれは何というのか戻ってきたボウリングの玉が待機する装置が存在していると、これが気になってどうにもならないようなのである。何かを基準にして狙いを定めているわけではなく「何となく窮屈に感じる」といった程度のメンタルなものなのだが、だからといって、私のボウリングの集弾率が次元大介の拳銃なみになったかというと決してそんなことはない。ボウリングとはそもそも「もう少し右」という類の調整をするスポーツなのかもしれない。

 ともあれ、いつになることか、今度、装置の右側のレーンで投げるときまでは「ボウリングの名手(ただし装置の右側でだけ)」の余韻にひたっていたいと思う。その日が来るのが、楽しみでもあり、怖くもある。


トップページへ
▽前を読む][研究内容一覧へ][△次を読む