涙のディレードスチール

 人間が泣くのは、実は他人のためではなく、自分のためなのだ、という話をどこかで聞いたことがある。たとえば、可愛がっていたペットが死んだとき、そのペットに感情移入して、痛かったろう苦しかったろう、と泣くのではない。あくまで自分、そのペットがいなくなって孤独になった自分がかわいそうで、悲しくて泣くのである、と。

 大人が泣く理由はそれだけなのだ、と断ずるにはちょっと苦しいところがあるが、よくよく自分の身を振り返ってみれば、このペットの話についてはその通りで、そもそも自分が痛い場合に実際に涙を流して痛がるかというと、そんなことはないと思う。昨年末に私が経験した激しい腹痛でも、痛さに苦しみ悶えて不随意的に涙が流れることはあったものの、泣くということはどうやらなかった。痛がっている動物に感情移入してしまったら、想像の痛さに顔をしかめることはあっても、泣きはしないと思うのである。してみると、ウミガメが産卵の時涙を流すというのも、あれは痛がっているのではないのだろう。それはそうか。

 さて、以上の推論が当を得ているかどうかは別にして、人は歳を取るずつ、少しずつ涙もろくなってゆくのは確かである。他人に感情移入する能力が増してゆくのか、自分の歴史が積み重なってゆくため、精神的に弱いところ、感じるところが多くなるのか、とにかくちょっとした事で泣く。私も常々、ここ十年ほどでずいぶん涙もろくなってきたと思っていて、考えてみると昔は映画で泣いたりすることは決してなかった。それが、今ではしょうもないテレビドラマなのに泣くところでは泣くのである。退化したとしか言いようがない。

 しかし、今日こそは真剣に、自分の精神になにか欠陥があるのではないか、と思えてならなかった。ここまで私にとっての涙が軽くなっているとは。なにしろ、会社であるウェブサイトを見ていたら、突然、ぐっと涙が込み上げてきたのである。なんだそれは、と思った。とんでもない、とも思った。そのページはどこだ、と聞く人があるかもしれない。お教えしよう。まず例の「Yahoo! JAPAN」、www.yahoo.co.jpに繋ぐ。「天気」のところをクリックする。「各地の天気」が出るので、自分の住んでいる地方を選ぶ。「今日、明日の天気」が表示されたら、目的地はそのすぐ下、「生活指数」のところである。

 いかん、見ていたらまたウっと来てしまった。つまり今日の「布団干し指数」である。こうある。

100。布団がふかふかになる

 自分でもどうしてだかわからない。わからないのだが、ここを見ているとぽろぽろと涙が出てくるのである。この涙は、つまり私にとってはなにかしら意味のある事なのだが、これをご覧のあなたにとっては九分九厘、そうではないはずである。なので説明をしなければならないが、自分でもよくわからないので、説明できるかどうかわからない。そんな行きつ戻りつする由無し事を書いても仕方がない。よろしい、説明してみようではないか。

 なにしろ、ふかふかなのである。ふとんが。

 ああっ、駄目だだめだ。全然、理解されていない気がする。私はもう、書きながら滂沱の涙(比喩的な意味で)なのだが、これで分かってくれというのは、無理だ。説明にも何にもなっていない。ふかふかのふとんが、残業に疲れた私の心に恐るべき癒しの効果を与え、そして私は涙を流したのだが、そう書いてしまうと身もフタもない。ああ、ふかふか。ふとん。太陽の匂い。ふとんたたき。ふわふわ。ベランダ。かけぶとん。ああ、ああっ。

 どうにも、私の心に意外な弱点があったという格好である。特定のキーワードが私の精神に鍵と錠前のようにぴたりと合ったということかもしれない。理由を探るべく、別の地方を見てみると、さすがは冬型の気圧配置である。「布団干し指数」にもさまざまあって、「100」の一枚岩ではない。京都方面では、こんなのを見つけた。

70。空模様に気を付けて布団を干しましょう

 なるほど。空模様は大事である。干している途中に雨が降ってきたら慌てて、って、そんなことを言っては布団干し指数の意味はあまりないではないか。ここは「70。あまりふかふかにはならない」とか「60。日によってはかえって湿ける」などと書いて欲しいのである。ふかふかが、夜寝るときにふかふかになっているのがいいんだよ。でも晴れ後曇り降水確率20%ではそうならないのだよ。とても悲しいのだよ。ではでは、東北方面、今日は一日中冷たい雪が降っていたらしい列島北部のこの大地はどうか。

10。布団干しにはあまり適さない

 知ってるってば。ここは「10。布団がずぶぬれになる」とか「20。布団に五センチの積雪がある」とかいう言葉が欲しかったところである。「0。布団がかわいそう」とか「5。君は大胆だね」でもいいかもしれない。なんだか「点取り占い」みたいだが。

……というようなことを書いていると、これは本当の話なのだが、完全にすっかり、どうして泣いたりしたのかわからなくなってしまった。布団が、ふかふかだって。ふむ、当ったり前ではないか。なんだか泣いたり笑ったり忙しいことで申し訳ないのだが、鍵を触っていたら根元でぽきんと折れて鍵穴に詰まってしまったように、何度かのページを読み返しても、私の魂は揺さぶられない。予期せぬセキュリティーホールが塞がってくれてほっとすべきか、何か大切なものを失ってしまったと後悔すべきか、難しいところなのであった。

 あと、タイトルにさほど意味はないので、深く追及しないでください。


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