敵の賀状

 もう三月になったというのにこんな話で恐縮だが、年賀状を書く作業は、どうも締め切りギリギリまでかかってしまうものである。私など、特に忙しかったわけでもないのに、今年はついに作業が新年にずれ込んで、賀状が相手に届いたのが七日ごろになってしまった。

 特に変わったポリシーというわけでもないと思うが、ときどき、暮れにはわざと何もしないで、元旦になって年賀状が届いた相手だけに返事を出す、と、そういう年賀状の書き方をする人がいる。これをやると年賀状をくれる相手が年々先細りになってゆくのだが、まずそれも人生の過ごし方というべきものであって、実は礼を欠かずに虚礼を廃止する上で正しいプロシーディアなのかもしれない。しかし、私のケースはこれとは違う。旧年中にやるつもり満々だった作業が元旦を過ぎてもまだ終わっていなかっただけのことであり、相手から私に年賀状が来たかどうかは関係ないのだ。自分の怠惰を棚上げしてひとことだけ言わせてもらえるならば、ポストというものは、いざ探すと見つからないものである。

 しかしこの場合、驚くのは遅い年賀状が届いた相手のほうだろう。元日からの数日間、一通り返事も書いて、やれやれと思っていたところに私からの賀状が不意討ちに挨拶を喰らわせる。七日というのは既に一般的な感覚では正月ではないのであって、もう手持ちの年賀ハガキも使い切っているかもしれず、といって返事を書かないわけにも行かないのでスーパーやコンビニで売れ残っている出来合いのデザインのものを買ってこなくてはならない。そんな事情があったのかどうか、十日ごろに「早々に挨拶ありがとうございました」という返事をもらった。悪いのは私のほうで赤面することしきりだが、なにもこんな事書かなくてもいいんじゃないかとも思った。

 さて、私の場合、年賀状を書くときには、ある一つの標語を常に頭に置いておかねばならない。その標語とは「どうせ読む人は別々」で、つまり、五十枚なら五十枚の年賀状を書くとして、その内容がいちいちオリジナリティに富んだものである必要などない、ということである。いや、書く内容、それ事体にはなにか自分らしさというものを出すべきだろうが、一つのアイデアをいちシーズンの年賀状の中で何度も使い回しすることを、恥じる必要などぜんぜんない。なぜならば、当たり前の話、出すのは私一人だが受け取る相手は別々だからである。

 もうすこし説明しておこう。たとえば「ベルトラン・賀正」という駄洒落を思い付いたとする。これは昔のF1ドライバーの名前だが、などと解説してしまってはちっとも面白くないが、これを今年の年賀状に採用することに決めた場合、私は五十枚にわたってこの駄洒落を書かねばならない。もちろんプリンターでがーっと刷ってしまえば、恥ずかしさもちうくらいなりおらが春だが、ペンで書くとなるとそうはいかない。五枚くらい書いたところで自分のセンスを疑いはじめ、十枚でやっぱりやめといたほうが良かったか、と後悔しはじめる。さらに、二十枚くらいで自分が世の中にとって必要ない人間に思えてきて、三十枚になると、なにか「ほんとうの自分」が体から抜け出して、年賀状を書いている自分を後ろから「やれやれだぜ」というポーズで眺めているような気がしてきてしまうのだ。しかしもちろん、これはただの錯覚であり、相手が同じシャレを五十回読まされるかというと幸いそんなことはないので、胸を張って三十回でも五十回でも書けばよいのである。まあ、たぶん。

 先日のこと、産院で、妻が出産するのを待っておよそ一日ほど時間を潰さねばならない、という事態に立ち至った。仮に「手持ちぶさた」という状況を漫画に書かねばならないとして、典型的な状況として選ばれるのがこの「分娩室の外で待つ父」ではないだろうか。生物学的な事情によって、夫婦間の立場の隔たりがもっとも大きくなる瞬間でもある。私はどこも痛いわけではなく、せいぜいがとこ眠いくらいのことである。普段の仕事も年休を取って一時停止しており、とりあえずやるべきことはもう何もない。といってパソコンやら携帯電話やらを持ち込むわけにもいかないので、批判を承知で有り体に言ってしまえば非常に暇である。本や携帯用ゲーム機でさえ、ちょっと不謹慎な気がして持ち込みにくい(が、正直言ってこれらは少しヤった。すまん)。

 というわけで、壁に貼ってある掲示物などをいろいろ見ていたのだが、実は、この産院の廊下には「この病院でお産をした人々からの年賀状」というものが、壁一面に貼ってあるのだった。一年を通じて貼ってあるのか、まだ二月だったからか、そこのところはわからないのだが、無慮三百枚、壁一面に葉書が貼り付けてある。予想がつくとは思うが、これがどの葉書もどの葉書も、人によっては忌み嫌われていると言ってもいい、子供の写真のついた「ベビ賀状」である。そういうのばかり選んで掲示しているのではない証拠に、ただのウマの絵の年賀状が一枚だけあったのだが、ほかはすべて写真だ。これを「親ばか」「恥ずかしいこと」として見る風潮はこのあたりにはあまりないだろうか。それとも、ベビ賀状を作る人と、子供を産んだ産院に年賀状を出すような人との間には、何らかの相関があるのかもしれない。とにかく一面の写真である。

 なにしろヒマだったので、年賀状たちを見ながらいろんなことを考えた。まずもって、誰も気にしていないかもしれないが、これはちょっと重大な「個人情報流出」かもしれない。これだけの新生児、乳幼児、児童を持つ家庭の、住所、電話番号、時には年齢まで含めた家族構成、といった個人情報が、なにしろ年賀状なので、壁一面に無造作に貼ってあるわけである。ベビー用品店には一定の手続きをして会員になると5パーセントほど割り引いてくれるところが多くて、これはつまりこれから子供が生まれる家庭の情報を店側がいかに必要としているかということだと思うのだが、見よ、ここに来ればそれがあるのである。

 そうして、一枚いちまい見てゆくと、いろんな顔があり、それに思い思いの名がつけられている。近ごろの子どもたちの個性的な名前群についても、何かを感じる人は感じるのだと思うが、そもそも私もかなりモダンな名前を我が子に与えたクチなので、これについてはあまり言うと自分に跳ね返ってくる。それよりも顔、写真なのだが、どうも、どれもこれも可愛くないのだ。いや、他人の子だから、そういうバイアスがかかっているとは思うのだが、かわいいとかハンサムだとかいう以前の問題として、いい表情をしていないのである。だいたいからして、年賀状に使う写真は自分で選べるのだから、その一年で一番可愛い写真でなくてはならないはずである。ところが、どうしてだろう、赤ちゃんが顔を歪めていまにも泣きそうだったり、ハナが垂れていたり、アングルが厳しかったり、バックに散らかった家の中が写り込んでいたり、おら知らね、とフキダシをつけたくなる顔をしたりしているのである。親なので、どれでも可愛く思えてきて、写真を選ぶ目が曇っているのだろうか。このあたりにも、ベビ賀状が嫌われる理由がありそうな気もする。私も気をつけよう。

 ここまで書いて、やっと話が元に戻る。年賀状を個々に見ることをやめて、ふと、このベビ賀状ギャラリーの全体を眺めたとき、妙なことに気が付く。年賀状のデザインが、みんな同じなのだ。いや、みなというわけではないのだが、バックの色、写真や文字の配置、添えられたキティちゃんやらディズニーのキャラクターやらのイラストが同じ構成になっている年賀状が、こっちに五枚、こっちに七枚といった調子で、ひとかたまりになって貼られているのだ。風情のないことおびただしい。没個性であり、裏返してばらばらにすれば「神経衰弱」に使える感じである。

 これはつまり、こういうことなのだろう。写真屋さんにベビ賀状を注文すると、できあいのデザインの中から好きなものを選択するように言われる。デザインは十分な数、たぶん二十種類くらいはあるのかもしれいないが、ベビ賀状を注文する人の数よりはバリエーションは絶望的に少ない。そうして一度は別れた三百人の仲間が産院で再会してみると、これとウチは同じだった、ということに、どうしてもなってしまうのだ。しかも、産院のほうも、よせばいいのに、同じデザインのものをつい集めて貼ってしまっていて、結果として、いかにも「このデザインを使うとこういうベビ賀状が作れます」とでもいいたげな展示になってしまっている。

 深夜の産院の廊下で、私は強く決意した。まず自分もベビ賀状を作るかどうかはよくわからないものの、こんな世の中であり私は決して強い人間ではない。もしかしてひょっとしてやらかしてしまうかもしれないのだが、この産院だけには普通の年賀状を作って出そう、と。あるいは、ベビ賀状にしてもデザインは独自のものにしようと。まったくもって「どうせ読む人は別々」が成り立たない世界が、こんなところにあったとは夢にも思わなかったのである。そういえば「ベルトラン・賀正」年賀状をF1雑誌に投稿したのは、あれは失敗だったかもしれない。


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