機械が私を馬鹿にする

 昔からよく言われることに、電卓や洗濯機のような機械は人間を甘やかし、馬鹿にしてしまう、という警告があって、私の意見としてはこれにくみするものではないのだけれども、あえて言い切るなら、少なくとも「機械を前にすると人間は馬鹿になる」ということは言えるのではないかと思う。

 私はそうではないぞ、むしろ機械を操作しているときはめちゃくちゃ明晰になるぞ、という人がいたらいつでも撤回する覚悟はあるが、少なくとも私に関して言えば、実験や作業などで機械をいじり始めると、普段に比べてかなり間抜けに、むしろ故郷のことばでいうところのアホゥな感じになる、ような気がするのだ。

 たとえば理科の実験がある。学校の授業で実験をすることになって、実験装置を目の前にすると、装置を操作して刹那的なデータを得る以上の難しいことが考えられなくなる、などということはないだろうか。私はある。あとでレポートを書くために、こういう条件のデータは必ず必要になる、ということが念頭になくなってしまい、のんのんと通りいっぺんのデータを取っておしまい、お疲れ様、帰ってビールでも一杯、にしてしまい、後で泣きを見たことが何度もあった(いや、私は)。機械を操作することに手一杯になるのか、実験中は記憶力や判断力が低下しているのである。これを防ぐためには事前に綿密に実験計画を立てればいいのだが、細かいところはそのとき決めればいい、などと考えて実験を始めることが多いので非常に危険である。実験中は今よりもっと頭が働かなくなる、と想定しなければならないようだ。

 日常的に理科や科学の実験をする人はあまり多くないと思うので、別の例を挙げることにすると、自動車を運転しているときもそうだ。よく知っている道だったり、事前に計画がしっかりできていれば別だが、なかなかそうとばかりは行かないもので、助手席に座った人間に道案内をしてもらうことがある。地図を見ながら助手がこう言う。
「この先、国道二五四号線に当たったらそこを右折」
 私はこたえる。
「はい了解」
 ところが、そのまま五分ほど運転して「国道四六三号」だの「一七号」だの「環状八号」だの「首都高速五号」だのを過ぎて、ふと気が付くのである。右折するのは国道何号だったか、ちっとも覚えていないのだ。ドライブが長時間に及んで疲れてくると咄嗟の判断力が低下する、とはよく言われることだが、それにとどまらない、記憶力だって低下していると思うのである。

 運転中ということで、さらにひとつ言えば、あれはどういうわけか、ちょっと隣の車線から自分の車の前に割り込んでこられるだけで、ひどく腹が立つものである。自動車に乗ると性格が変わってしまう人は多いのだろうが、もしかしてこれは性格ではなく「機械の前だから馬鹿になっている」ということではないか。

 冷静になって考えてみれば、一台くらい前に行かれたところで実際にはどうということはない。特に私の場合は日常的に混んでいる道を行き来しているので、抜かれた自動車一台の差はほんとうに自動車一台分の長さの差でしかない場合が多いはずである。たまたま自分の前で信号が変わることでもない限り、到着時間で言うと数秒くらいの差に過ぎない。もしも割り込んできたその車がまたもとの車線に戻っていったり、わき道に逸れたりするなら、割り込みは実質「なかったこと」になる。

 これを「歴史は自らの回復力により、元の筋道に戻ったのだ」とタイムパトロールのようなことを考えたりしながら通勤しているわけだが、そういうふうに「割り込み=時間犯罪者=悪」と単純に考えてしまうのは、それ自体、かなりアホゥなことである。実はこのまえ、私の前に割り込んできた車が、狭い道で左折し損ねて、目の前で電柱にわき腹をがりがりとこすって行ってしまったのを見たのだが、このときばかりは「恨みの波動を送るのはもうやめよう」と後悔した。いや、後悔して反省すればいいというものではなくて、そもそもこんなことくらいで前の車に恨みを抱くのが間違っているのである。どうも、大局的な思考ができなくなっているように思う。

 こういった「機械の前でアホゥになる現象」をいろいろ分析してみると、一つ言えることは、私が「自分の能力」だと思っているものは、私と机の上に広げた帳面と、それからボールペンが複合して生み出している能力なのではないか、ということである。たとえば筆算をしたり、方程式を解いたり、地図を書いて計画を立てたりする上で、紙と鉛筆がないとうまくいかないわけだが、ということはつまり「机についていない私は複雑な思考ができない」ということなのではないか。

 いや、筆記用具は道具であり使っているのは確かに私なのだが、何か書くものがなければたとえば二次方程式を解いたりできないのは確かである。これは当然のことで、方程式をむにゅむにゅと変形させて解を出したりするときに、いちいち考えているわけではなく「両辺に同じ数を掛ける」とか「両辺に同じ数字を足す」といった機械的な手順を適用しているだけだ。紙の上に書かれた情報を利用しつつ、機械的に計算を行っているのだから、単なる紙きれでも立派な「補助脳」というべきで、むしろ私の脳のほうこそシステムの一部と言えるかもしれない。そして、こういう形で考えることに慣れていると、机の上に置かれて普段使っているいろいろな補助脳から切り離されて、それだけで多少アホゥになってしまうのは、もうしかたがない気がする。

 ではパソコンはどうだろう。パソコンがちょっと面白いのは「パソコンだって機械の一種である」という面と「パソコンは優秀な補助脳になりえる」という面が同居しているところではないかと思う。文章の推敲、辞書や他の情報の参照は(慣れれば)パソコンのほうがずっと効率よく、私などもはやパソコンなしで文章を書くのは金棒を持ってない恵まれない鬼のような状態なのだが、一方で、式の変形や作図しての思考などは、未だに紙と鉛筆のほうがずっと効率がよいので、というよりいっそパソコンでは不可能に近いので、パソコンを前にすると数式に関してひどくアホゥになってしまう。

 なんだか今回はとりとめもない文章になったが、要するに、私が机から引き離されると能力が低下するように、パソコンに向かうと人間は数式よりも文章の得意になるのではないか。しかし、当たり前のことを大声で言うようだが、キーボードとテキストエディタの画面のほうが文章入力において有効な道具であるように、紙と鉛筆よりもはるかに有効な、図や数式を扱うソフトウェアができないことはない、と思う。これからのIT時代、これ以上の理系離れを食い止めるために、求められているのはソレだ、きっと。


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