神様のくれたリズム

 赤ん坊というのはどうにもこうにも夜泣きをするもので、他の点においてはおおむね扱いやすい、よい子である我が娘に関しても、こればかりは例外とはしなかった。つい先日一歳になり、ある法律で定められるところによれば乳児を脱し幼児となった娘ではあるが、いまだに夜中、よく目も覚めないまま何か彼女なりの理由でもってぐずりぐずりとむせび泣いていることがある。

 なぜ夜泣きをするのか、テレビの子育て番組や雑誌を調べてみても、特に原因は明らかになっていないそうである。確かに、明らかに腹が減っているのだったり鼻が詰まって苦しいのだったり、あるいは単に悪い夢を見ているらしいとわかる場合もあるのだが、それ以外のたいていの場合は、どうしてだか理由がよくわからないのだ。腹の中にガスが溜まって苦しんでいるなどという説もあるのだそうで、実際にはいろいろあるのだろうなと思う。あるいは母の胎内が恋しいのかもしれない。

 さて、特に理由がない場合が多いとはいえ、そうして泣き始めると、やはり親としては落ち着いて寝ているわけにはゆかない。私の娘は基本的に気のいいヤツなので、よほどのことがない限りミルクを作って飲ませれば落ち着いて寝る。問題は、そこまでのことが必要かどうかだ。手前勝手なことを言うようだが、可能ならわざわざ布団から出て調乳(哺乳瓶に適切な温度のミルクを作ること)はしたくないのである。なにしろこちらだって眠いのだ。今回の夜泣きの「ひどさ」がどの程度か、本当にミルクが必要なのかどうか、判断しなければならないのである。

 長く付き合うといろいろなことがわかってくるもので、夜泣きに起こされているうちに私はある程度このへんの見極めがうまくなった。いくつかの場合、特に早めに夜泣きに気づいたなら、私の子供は、背中をとんとんと指先で叩いてやると、安心してすぐまた寝てしまうようである。ダメなときはどうしたってダメで、結局台所に立ってミルクを作らねばならないことも多いのだが、叩くのはタダであるし寝てくれればそれに越したことはないので、最近ではとりあえずそうすることにしている。

 その晩、長く実りのない昼間の仕事を終え、遅く帰宅した次の日の明け方も、私はぐずりはじめた娘の背中をとんとんと叩いていた。このときの叩き方にもコツめいたものはあって、手のひら全体でぽんぽん叩くのではなく、手のひらを密着させたまま、人差し指の指先、指の腹だけでもってとんとんと叩くのがいいらしい。私はひたすらとんとん叩いていた。文字にすると「えいんえいんえいん」に近い声を挙げている娘が、なんとかこれでふたたび眠ってくれれば、私も今日の仕事の前にあと数時間、眠りをむさぼることができるのだ。

 とんとんとん、とんとんとん、とんとんとん、とんとんとん…

 叩き方はこうである。楽譜(というほどのことはないが)にすると、

♪♪♪休♪♪♪休、繰り返し

になる。手書きでへたくそな楽譜だが、実際私の叩き方もそんな感じで、リズムはあまり一定していない。そうして私のほうも夢うつつで三〇秒くらい叩いていると、今回は、どうやらこれだけで寝てくれるらしい。娘はぐずるのをだんだんやめ、うつらうつらとしはじめた。と、見上げると、娘を挟んで反対側に寝ていた妻が目を覚まして、こちらを見ていた。

「ねたよ」
と私が小声で言うと、妻も小声でこうこたえる。
「うん、ありがと。それにしてもそれ」
と私がまだとんとんやっている手指のほうを見て、
「すごい威力だねえ」
「むふ、そうかね」
「うん、録音しておいて、あなたがいないときに使わなくっちゃ」
「なるほど」

 それはいいアイデアかもしれない。娘はおそらく主として手のぬくもりと軽く叩かれることによって安心感を得て寝ているのだと思うが、音の効果もあるに違いなく、スピーカーから出る同じような音でもある程度安心するのではないか、と思う。録音するといってもうちにはラジカセもなにもないのだが、幸いにして持っているパソコンには録音再生の機能がついているといえばついている。

 次の日、私はパソコンを立ち上げると、自分の手の音の録音を行った。ノートパソコンのボディ、マイクがあるあたりを、できるだけ娘の背中を叩くようにして、叩く。とんとんとん、と百回ほど繰り返して、画面上の録音停止ボタンを押す。できたデータを圧縮して「とんとん」と事実に反するファイル名(とんが二回ではなく三回なので)をつけて保存しなおす。これでできた。

「それにしてもその音、聞いてるとこっちが眠くなるね」
 テスト再生をしていると、横で台所仕事をしていた妻が私に言った。そうだ、私もそう思っていた。自分で言うのもなんだが、この音にはかなりの催眠効果があるような気がする。単純なリズムで、一聴どこにも変わったことはないのだが、なにしろもとが私の指なので、リズムは一定ではなく、微妙な変化がある。そこがどうにも、眠りを誘うのである。
「これ、眠れない夜なんかに寝るために聞く音楽として、売り出せないかなあ」
「まさか」
「いや、なにがあるかわからん、とりあえずネット上にアップロードしとこ」
「ばかねえ」
 私は適当な紹介文を書くと、自分のサイトに「とんとん」を掲示した。

 それからどうなったか。数日間、いや数週間というもの、私のサイトはこの「とんとん」の威力に関する話題でひきもきらなかった。長い夜になぜか安心して眠れたという人、捨てがたい魅力にとらわれて聞き入っていたらパソコンの前で寝てしまったという人、ウォークマンに入れて電車を寝過ごした人、職場で聞いて昼休みを棒に振った人など、「とんとん」の恐るべき催眠効果について賞賛の声は止まなかった。

 これは、もしかしたら一つの才能かもしれない。私のリズム(あるいはリズムの狂い)には、眠りに関する微妙な効果があるようなのである。しかも、簡単に真似できるようで、他の誰が作ったものも、こと催眠という機能に関しては、私のものほどの効果はないようだった。しばらく日が経つうちに「とんとん」ページははあちこちからリンクされ、またさまざまな手段でコピーされて、ネット上のあちらこちらで見かけるようになった。ネット上の情報ではしばしばあることだが、私のような小さいサイトでは、最大のヒットと言ってもいい。

「『とんとん』がCDになっているらしい」
という情報が来たのは、それからずいぶん経ってからだった。どこかの業者が「波の音」「小鳥のさえずり」といったさまざまな効果音を納めたCDの中に、ネットのどこかから拾ってきた私の「とんとん」を収録したらしいのである。爆発的な売れ行きというものでもないらしいが、取り寄せて、買って聞いてみると、確かに私のものだった。評判は判然としないが、あるいはパソコンに全く縁のない誰かを、特に夜泣きする赤ん坊を、私のとんとん音が眠らせているのだろうか。女子高生の間で大人気になりオリコンのチャートを駆け上りテレビが取材に押し寄せる、ということはなかったが、私は満足だった。なにしろCDデビューである。枕もとにCDプレイヤーを置いて、娘が泣くとそれを聞かせればいいかな、と思った。

「えいんえいんえいーん、えっえっえっ、えいんえいん」
と、泣き声がした。私は布団の中、隣にいる幼い子がまたもや夜泣きをはじめている。私はあわてて子供の肩に置いたままの手で「とんとんとん」と再開するが、娘はますます泣くばかり、どうにもふたたび寝る気配はない。私はしぶしぶ起きると、暖かい寝床を抜け、ミルクを作るために台所へと向かった。私のリズムに本当に魔法の力があったなら、どんなに素敵だろう。いましがた見た、やけにいい夢でそうであったように。


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