朝ご飯を抜いて

 一般に、妊娠すると体重は徐々に増えてゆく。見た目からしてお腹が大きくなるのだから当然のことのようだが、まだ生まれていない子供の体重、この子を体の中に生かし育てるためのさまざまな器官の重さのほかに、妊娠出産に伴う体への負担に耐え抜くための栄養を、母体はそれ自身の中にできるかぎり貯めこもうと努力をする。そうしてどこが悪いだろう。過去数百万年そうやってきたのだから。

 そういうわけで、えてして増えてゆく子供の体重よりも大きな割合で、母親の体重は増えてしまうものなのだが、これは現代においては必ずしもよいことではない、らしい。カルシウムやビタミンなどの微量成分はともかく、カロリーに関して言えば、最近の母親は妊娠だからといって余分な食事をとらなくてよいほどの栄養を普段の生活から得ている。それよりも、体重が増えすぎると妊娠中毒症などの悪影響が大きくなるので、よくないのだ。母親のもともとの体重にもよるのだが、妊娠中の体重コントロールなどというものが必要になってくる可能性がある。平たくいえば、ダイエットである。

 はた目にもこれは辛いことだ。子供の成長とともに自然に任せていれば増えてゆく体重を、なんとかして押さえ、時には減らさねばならない。お腹の子供にさわったら、という危惧で激しい運動はとてもできないし、そうすると普通は体重は、増えてしまうものだ。

 そのあたりの辛さについて、私は女ならぬ身、本当にわかったとは言えないのだが、それでも想像をたくましくすれば、妻の苦しみにはかなりの程度共感するところがある。私もどちらかといえば体重を増やすよりは減らせと言われる人間であるし、数週間ごとに病院で体重をチェックされ、体重についての苦言をもらう、というのは相当たいへんなことだろうなと思うのである。しかし、その上であえて言わせてもらえば、妻がこのときに行っていた習慣には、妙なことをするものだと思った。

 ここでバラしてしまうが、妻は、定期的にかかっていた産婦人科に、朝ご飯を抜いて出かけるようになったのである。診察は受けねばならないが、といって体重は容赦なく増えており、医者にはまず確実に叱られてしまうだろう。朝ご飯を食べないでゆけば、せめてその分、体重は確実に減る。でもって、一ヶ月ごとの検診では、朝ご飯ぶんの数百グラムの重量はけっこう大きな違いなのである。

 これはいい思い付きとは言えない。朝ご飯を月に一回程度抜くことで、子供になにか悪影響があるとしても、それは大したことはないと思う。しかし、体重は普段から気にすべきものであり、それがうまく行かず、診察の朝に予定体重に達していないとしても、それを朝ご飯なんかで調整してはいけないのではないだろうか。体重が増えているのは増えているとしていさぎよく叱られるべきで、それをバネにまた次のひと月頑張るべきなのであり、それをごまかしては結局は自分のためにならない。

 しかも、一度朝ご飯を抜いて医者に行くと、次からもやはり朝を抜いて行かねばならなくなってしまう。たとえば八月の診察を受けた時から九月の診察を受ける間に太ってしまい、朝ご飯を抜いてごまかしたとする。そうするとその次、一〇月の診察の朝も、やはり空腹を我慢せねばならないのである。朝ご飯を食べてしまうと、九月に太った分と一〇月に太った分プラス朝ご飯ぶんの重量増加を、いっぺんに一〇月の検診で露呈してしまい、ひどく叱られることになってしまうからだ。しかも、では一〇月も朝ご飯抜きで行けば万万歳かというとそんなことははない。九月と一〇月の間に太った分はちゃんとカウントされてしまうのであり、べつに得はしない。この「朝ご飯抜き作戦」はたった朝ご飯一回分の重量を診察一回分についてごまかすだけしか効果がないのに、一度使ってしまうとずっとごまかし続ける必要があるのだ。

 どうも、妊娠は人を理性的にする過程ではないらしく、今このことを妻に言うと「なんであんなことしたのかなあ」と恥ずかしそうに遺憾の意を表明する。しかし当時は笑い事ではなく、毎月の検診の朝、自分のぶんの朝ご飯に手を付けない妻、それをたしなめた私に妻がしてみせた怒りの表情を思い出すと、なんだか恐ろしいような気持ちになるのである。

 さて、以上の話とはさほど関係がない。アメリカ、イギリス等の連合軍とイラクの間の戦争が始まってしばらく経ったが、世界にはいまだ平和を訴え、戦争停止への意志のアピールを行う沢山の人々が存在する。そのことの是非、効果、この戦争について私が思っていることについては本文においてはとりあえずどうでもよい。そのデモ行動を報じた新聞記事に、こうあったのである。

●東京・芝公園
 快晴の東京では、都心を歩くピース・パレードという行事が人々を引きつけた。主催は(中略)いずれも反戦活動の実績で鳴るNGOで、出足のよさを見て『5万人参加』『大成功』と発表した。警視庁調べでも1万880人が集まった。
(朝日新聞二〇〇三年三月二二日)

「警視庁調べでも」ではない。おそらくデモというのは大抵そういうもので、誰も驚かなくなっているのだろうが、主催者側発表五万人と警察発表一万八八〇人では、四倍以上の開きがあるのであう。これは到底「似たようなもの」「誤差」ではない。一万人集まるだろうと思っていて五万人も集まったら、場合によっては怪我人が出る騒ぎになるのだ。なにかはっきりとした意志が、そうでなくともあまりにもいいかげんな見積もりがあるのだ。この開きについて、人々は、特に参加者や主催者はどう思っているのか。

 単純化した物の見方だが、主催者には常に、はっきりと「人数が多いほうが嬉しい」という事情がある。一方、警察の意図はこれほどはっきりしていなくて「多く発表したほうが、多人数にもかかわらず警備がうまくいったというアピールになる(あるいは警備がうまくいかなかった言い訳になって、警備にさく予算を増やしてもらうためのデータになる)」という事情が考えられる一方、「人数を過小に発表したほうが次回の参加者の意志をくじいて警備の負担を少なくできる」という方向性も考えられるだろう。正確な数値がこの間のどこにあるのか、あるいはこの間のどこにもないのか、それはわからないが、どちらかといえば、少しは考えて数字を出しているのは警視庁のほうではないかという気がする。一万八八〇人は記録に残るのだろうが、五万人のほうは記者に問われてざっと出した程度の数字ではないか。

 しかし「ざっと出した」としても、本来は概数は正確な数字のまわりをばらつくように出すべきものである。仮に実際の人数が三万人だったとしたら、五万人と出すこともあるけれども、一万人と公称することもあって、長い目で見ると平均的に正しい値を出しているというものでなければならない。本当にそうなっているだろうか。

 私はかつての担当教授に口を酸っぱくして「数字というものは恐ろしいものだ」と教わった。数字は神聖なものだ、と言うこともできるかもしれない。いったん研究者のもとを離れ、発表されてしまった数字は容易に取り返しがつかない。訂正を出すことは簡単ではなく、出したとしても最初の数字を引用されてしまうことが多い。それでいてその数字は自分の名前とともにずっと残ってしまうのである。ある意味で最初の発表が「神聖」なものであるかのように扱われるのであって、それゆえ研究者は自分のベストを尽くして、誠実な数字を、誠実な誤差をつけて発表しなければならない。

 そういう意味でこの「主催者側発表」には、ずいぶん控えめに言って、私とはだいぶ違う人間が作った数字なのだろうなと思う。だからデモは駄目だとか、その主張は間違っていると言うつもりはまったくないのだが、そのへんをなんとかしてもらえたら、私はもう少しデモに参加しやすいだろうと思うのである。自分の主義主張が正しいという確信、戦争の当事者を含め、みんながやっていることであるという安心感と焦燥感、過去の発表を参考にすることから来る罪のない錯誤等々から来るものであるとしても、数字に誠実でない者について、何を信じればよいのか。私の妻のように、一度数字をごまかしはじめるとずっとごまかし続けなければならないのだ。その効果は減ったままだというのに。


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