話の流れ

 島本和彦の「吼えろペン」という漫画は、熱血漫画家の周囲で起きるさまざまな事件を描いたフィクションである。漫画家として自分自身が属する世界を題材にとった話であり、虚実入り混じった勢いのある描写が面白い。すでに長期連載になりつつあるが、この最近の巻の中に、ちょっと気になる話があった。登場キャラクター(漫画家)が職業上、未来をある程度読めてしまう、という話である。

 簡単に紹介すると、劇中で、友人の結婚式に出席したこの漫画家は、式を挙げているカップルの出会いから結婚までを漫画にして出席者に配布する。漫画家らしいプレゼントなのだが、これが、実は結婚が決まってから描いたものではない。二人の出会いの頃に、二人を主人公として今後の展開を予想して描いたら、その通りになってしまったものなのである。驚く周囲に、彼女はこううそぶく。キャラクターさえちゃんと決まっていたら、ストーリーなんてだいたいわかっちゃうもの、なのだと。

 この話を読み終わって思ったのだが、この漫画家の未来を予想する「能力」は、果たしてフィクションなのだろうか。現実と地続きになったどこかである程度そういうことはあるのだ、と暗に主張されているようにも思うし、一方で「噂をされるとくしゃみをする」がそうであるように、実際にはありえないが話の中では受け入れてもいいSF的な設定として描かれているようにも見える。

 作者の意図がどのあたりにあるかは別として、私自身の感想を述べるならば、絵空事とも言えないのではないか、と思う。職業的な劇作者が、いつも作品に向けて発揮している能力を現実に対してふるうとき、これから起こる出来事を「話の流れ」としてある程度予想するということは、ありそうなことのように思えるのだ。

 私はもちろん漫画家でもなければ小説家でもないのだが、それでも「話の流れ」の威力のようなものを感じるときがある。ここまでの「話」の流れがこうで、「登場人物」はそれぞれこんな性格で、今後起こりそうな「事件」はこうである、というような境界条件を与えられると、なにか、こう、話としてこうとしか落ち着きようがない、そういう場合があると思うのである。常にではないが、そういう想像ができる瞬間がある。

 たとえばこんなときだ。野球をテレビで見ている。二点差を追いかける五回裏の攻撃、ワンナウトでランナーが一三塁、バッターはアリアス。ピッチャーが投じた第一球はファウルされて内野席に飛び込んだ。さあワンストライクで第二球、というところで「話の流れ」からして、私はこう思うのである。「内野ゴロゲッツーくずれの間に一点」と。

 私はこの種の予言を個人的に「ジャッキービジョン」と呼んでいるが、もちろんこれが驚異的な的中率を示す、と主張したいわけではない。当たるときもあるし、当たらないときもある。「ゲッツーくずれで一点」が的中する確率が実際どのくらいになるのかを見積もるのは大抵なことではないが、まあ、確率どおりの的中率を示しているに違いないという気がする。であれば、ジャッキービジョンとはいったいなにか。劇作者とそうでない人間の違いがどこにあると言いたいのか。

 いや、今キーボードが滑って非常に偉そうなことを書いてしまった。違いなどどこにもない、とお金を賭けるならそっちに賭けたいところだが、あえて、どこかに違いがあるとするなら、その違いは「引き出しの多さ」にあるのではないかと思う。たとえば、上の場面でどうなるか予想せよ、と多くの人に質問した場合「ゲッツーくずれで一点」という予想は多くはない、と思う。そこのところに何かしら、ちょっとした値打ちがありそうな気はする。作劇の経験を積んでいる人とそうでない人の違いは、あるとしたらそこだ。

 こうも言える。この人物、この環境、この話の流れで、ありそうな未来をいくつ考え付けるかというのは、純粋に訓練の問題であり、そのうちもっともらしいものを選び取るというのは、普通暮らしていてあまり磨かれることがない能力である。フィクションのほうが一般に現実よりも複雑なので、フィクションの訓練はちょうど現実に対して「大リーグ養成ギプス」をつけて生活することに相当する。予想能力が磨かれて当然なのだ。以上、書いていて非常に苦しい議論であり、なんだかよくわからなくなったが、物語を作る人とそうでない人でなにがしかの差ができることは、あってもいい。あったらいいなあと思う。

「話の流れ」を極めると、野球の展開予想以外にもいろいろいいことがある。たとえば、英語や古文、漢文の試験だ。長文読解なんかの試験で、どうもわからない単語がある。あるいはここのところの文章が納得いかない。もしくは時間が足りなくて斜め読みしかできない。そういうときに「話の流れ」を使う。なんとなくここにはこういうことが書いてあるのではないか、男女の会話らしいが、それならこういうふうなことが話されているに違いない、ということが、あっぱれ推定できるのだ。他にもこの技術は「字幕なしでボリュームをしぼったテレビを理解する」「途中からしか聞いてなかったパートナーの話の全体を推測して適切な返事を返す」等、応用範囲は広い。

 絵空事だと言うなかれ、私は実は英語なんて何にもわからないのだが、会社にムリクリ受けさせられた英語の試験で、この「話の流れ」法を使って、おそるべしかなりの高得点をたたき出したことがある。出てきた長文がなんとなく求人広告っぽいな、と思ったらそうだったし、ははあんこれは子犬のもらい手を探しているのだ、と読んだらその通りだった。英語の点数を稼ぐために、まず作劇してみる、というアプローチは意味があるかもしれない。迂遠だけど。

 ところで、今年の阪神だが、私はある段階で「優勝が迫ると突如失速して『連敗、ちょっと勝ち、連敗』が続き、最終的には『負けたけどマジック対象チームも負けて優勝』という形になる」と予測していた。ロードで負けが込んでいたあたりで「話の流れ」が読めた(気がした)のである。終わってみたら、どうだろう、予言の前半も後半も、半分だけ当たった感じになった(連敗もしたが連勝もして、自分の試合に勝ったあと、対象チームが負けて優勝決定)。これではあまり威張れない。

 思うに、野球は筋書きのないドラマである。今年は非常に楽しかった。今後も私のペシミスティックな筋書きを超えるストーリーで、来年もこうなんとかひとつがんばっていってほしいと思うのである。あ、日本シリーズもね。


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