鶏たちのゲーム

 高校生のとき、英語の試験で「The pen is mightier than the sword.」を「ペンは剣より強し」と訳して、バツをもらったことがある。辞書を引けばわかるように、penには「文筆(の力)」という意味があり、swordには「武力」という意味がある。だからしてこれは「文章の力は武力よりも強力である」等と訳さねばならなかったそうなのだが、なかなか納得はできないところである。

 まず、日本語の「ペン」には「文筆の力」という含意がないのか、「剣」からは「武力」が想像できないのか、という疑問がある。たとえば、英語の「blue」には「悲しい」という意味があるが、日本語の「青」にはそんな意味はない。こういう場合であれば、確かにこれは「私は今朝から青です」と翻訳してしまってはマズいだろう。しかし、剣なりペンなりは、そこまでの暗喩ではないと思うのだ。当時、この仕打ちにはかなり憤ったものである。

 それにしても、ことわざや格言というものは大体において、かっとしてはいけない、怒ったら損をすると、平和主義ばかりを説いているものである。「ペンは剣より強し」もそうだし、「負けるが勝ち」や「短気は損気」とか、「怒るのは頭が悪い証拠」なんていうのも聞いたことがある。「先んずれば人を制す」なんていうのもあるが、これはどちらかというとスピードの利、先に手を打つ有利を説いたものであり「まずは殴っとけ」と言っているわけではない。

 こんな傾向が生じるのは、ひとつには、怒るのは我慢するのに比べ一般に簡単だから、あるいは口より先に手が出るタイプの人は格言など残さない、という単純な事実に由来しているのではないかと思う。怒るというのは論理の放棄なので、もっともなことだ。しかし現実には、やっぱりここは怒っておくべきだ、という場合はやっぱりあるような気がする。少なくとも、冷静に考えてここは「怒ったふり」をしたほうがいいという、そういう場面は確かにあると思うのである。

 たとえばいま、赤ん坊を抱えた家があって、夫婦のどちらが赤ちゃんの晩御飯を作るかで、もめているとする。夫も妻も、今晩はへとへとで、自分は作りたくないと思っている。といって、赤ん坊はかわいいのである。どちらもとうとう晩御飯を作らないまま、赤ん坊がその晩空腹で過ごすなどということは絶対にあってほしくない。それならいくら疲れていようと自分が作るほうがましだ。

 この図式は、ゲーム理論で「チキンゲーム」と呼ばれる状況である。あなたが「囚人のジレンマ」をご存じであればすごく説明が簡単になるのだが、これに比べると、双方が裏切り(上の例では「ご飯を作らない」)よりも相手が裏切りで自分が協調(相手はサボって自分がご飯を作る)のほうがまだ好ましい、という点で違っている。あまり深くは立ち入らないが、片方のプレイヤーにとって好ましい順番を表にすると、こんな感じである。

状況囚人のジレンマチキンゲーム
相手が協調・自分が裏切り1位1位
双方協調2位2位
相手が裏切り・自分は協調4位3位
相手も自分も裏切りを選択3位4位

 違いはわずか、表の下から二行ぶんである。囚人のジレンマに比べ、チキンゲームの場合は両方のプレイヤーが裏切ると最悪の結果になる点が違っている。状況は対称なので、両方裏切りは両方にとって最悪ということになる。さて、状況がこのようであった場合、ゲームの行方はいったいどうなるのかというと、これが「怒ったもの勝ち」なのだ。

 考えてみよう。夫婦のうち、どちらかがその晩、かんかんに腹を立てていたとする。パートナーの目からみて、どうやら今度こそ飯を作らない気配がする。ここでもし自分も作らないことに決めたとすると、十中八九、赤ん坊は飢えてしまうだろう。せめて最悪を回避するために、自分がご飯を作らなければならない。というわけで、怒ったプレイヤーは期せずして最高の成果を得ることになるのである。ここのところが、自分も裏切ればそれで済む「囚人のジレンマ」形式とだいぶちがうところだ。

 ともあれ、なんであれ「怒った方が勝ち」というゲームがあることは、よく考えてみると、たいへん面白くももの悲しいことではないかと思う。声の大きい方が勝ち、手のつけられないふうを装った方が勝ち、論理の通じないふりをしたほうが勝ちで、しかも論理的に考えるとそういう結論になる、というのだから。夫婦仲にとっても、赤ん坊にとっても、いいことではない。

 こういうときはどうするか。ゲーム理論はもちろん黙して語らないわけだが、みんながやっているように「ゲームのルールを変える」のが一つの方策である。そもそも、相手が早々に寝てしまい、自分がご飯を作ることが、3位の順位であることがいけない。何を幸せと感じ、なにを不幸と感じるかは結局自分の自由なので、ここはこの選択肢の順位をぐっと上げてみる。「また赤ちゃんと二人きりで食事できて幸せ」「この子はどんどん私の色に染まってゆく」「私は子供のご飯づくりが趣味。誰にもこの仕事渡してなるものか」。だんだん悲しくなってきたような気がするが、そうやって昇華してしまえば、怒ったほうが勝ちなどということはなくなる。さよう、感じ方一つなのだ。

 思うに、ことわざにおける「負けるが勝ち」とは、要するにそういうことなのかもしれない。「短気は損気」はよく考えることでゲームのルールが変わることを、「怒るのは頭の悪い証拠」というのは柔軟性を持った幸福感を持つことを、それぞれさとしているのかも。そういえば「酸っぱいブドウ」というのは、自らの感じ方を塩梅することで幸せを手に入れるための格言と、言えなくはない。

 そして、思い出そう。「ペンは剣より強し」の話をここに書くことで、高校の時に感じた敗北感が、今「話のマクラを一個手に入れた」という勝利感によって、きれいに払拭されたのではないか。そうとも、いつだって、ルールは自分次第で変わるものなのである。なんだか乱暴な結論だという気もするが、今はこれが私の精いっぱいである。なにしろ、これから子供を寝かし付けなければならないのだ。あらあらいやいやこのへんで失礼しつれい。


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