縦のものを横にもしない

 これは書いておかねばならない、というほどのことでもないのだけれども、私は子供の頃、道に落ちていたバナナの皮を踏んで、滑って転んだことがある。バナナの皮が滑るのは本当のことで、どうもこれは、皮の裏と表の間が何層にもなっていて互いに滑るのが原因らしい、と、子供心に考えたりもした。なので、長じて北杜夫が「おそらく遠い過去においてバナナの皮にすべった人間が幾人かいたのであろう云々」と書いているのを読んだときには、すこし憤慨した。

 しかしこの「バナナで滑って転ぶ」という経験も、ばかな子供にだけ許される特権かもしれない。なにしろ、漫画やアニメのおかげでバナナを踏むと転ぶというのはみんな知っているので、みんな(たぶん過剰に)気をつける。もちろん「あえて踏んでみる」ということも可能だけれども、わざわざ実験してみるというのは「バナナで滑って転んだことがある」とは、ちょっと違う気もするのである。自分をびっくりさせるというのは、難しいことだ。

 そういうものなので、バナナの皮を誤って踏んで転んだことがある、わずかな、限られた人を除いては「バナナの皮」は物語だけに登場する、一種のフィクションと映るのはやむを得ないのかもしれない。「噂をされると、くしゃみが出る」と比較するのも面白い。このジンクスを、まさか正気で信じている人はいないと思うのだが、物語中には普遍的に、真実として登場する。これも、自分の経験としては真実ではないという点では「バナナの皮」と同じようなものである。

 他にこういうものがないかと、考えてみた。少し苦しいが、これはどうだろう。「朝三暮四」という言葉は、故事成語である。昔、中国のある人が、飼っていた猿にエサを与えるにあたって、餌代を節約するために「朝三つ暮れに四つにしよう」と告げた。猿たちは怒った。そこで「朝四つ暮れ三つにしよう」と提案したら、今度は猿は喜んだ。もしかしたら四と三が反対だったかもしれないが、確かそんなような話だ。

 しかし、落ち着いて考えてみると、これもまさか本当にあった話ではない。猿が本当にこういうことで怒ったり喜んだりするのかどうか、実際に飼った経験からの発言かと言われたら確かにそんなことはないのだけれども、まあその、ぶっちゃけた話、そんなことはない、だろう。これは故事(昔あったことという意味の)ではなく、単なる「うまくできた話」ではないのか。それでいいのか故事成語。

 さて「朝三暮四」は「目先のことにこだわって本質的なことに気が付かない」というような意味である。猿ではなく人間なので「朝三暮四」と「朝四暮三」は同じだとわかるけれども、猿は気が付かない。それで思うのだが、保険のコマーシャルでよくある「一日わずか五十円」等というのは、これはつまり、あれではないか。朝三暮四。

 確かに「一日合計七つやんけ」よりは多少難しい計算だけれども、複雑というほどのことはない。月額保険料を三十で割る、というだけのことである。真意はわからないが、たぶん、コマーシャルの作り手としては「一日に直すとたった五十円なのか、安ぅい」と言ってもらえると思って、こういうことを言うのだろうと思うのだ。だとすると、これは「わあい朝が三つだったのが四つになったよ、超おトク」と猿に思ってもらおうとしているのと同じで、ヒトのことを非常に馬鹿にしていることにならないか。

 当たり前の話だが、どういうふうに換算しようと本質は変わらない。計算上は一年あたりにしても、一秒あたりにしてもいいが、それで保険料が安くなるわけではないので、畢竟「受け手がどう感じるか」というだけの問題である。もしも、受け手がすばやく「一日当たり」と「一ヶ月当たり」を換算できるなら、どちらを提示しようと変わらない。あまり意味のないことである。

 保険料として、一日五十円の負担が高いのか安いのか、実は私にはピンと来ないのだけれども、この反対をやってみると、少しは納得できるかも知れない。たとえば、三年半ほど前に買った車は、確か百五十万円くらいだった。これを今日までの一日あたりに直してみると、千円ちょっとくらいになる。えっ、千円。ほんと。ええっ。本当だ。

 正直、ちょっと驚いた。ガソリン代や車検代、いろんな修理にかかったお金を全部なかったことにしても、一日千円もかかっているのである。ああもったいない。あ、いやいやいや。というよりもだ、だから換算では本質は変わらないと言っているではないか。こういうことでびっくりしているようでは、朝三暮四の猿のことをちっとも笑えないと思うのである。バナナの皮で滑るような男なので、しかたないといえばしかたないのだが。


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