前世はそういう生き物

「棒が好き」
と書いて二度見直すと、頭に「やっぱり」と書き加えたくなって困るが、よく見れば猫と棒は全然似ていない。棒がお似合いなのはむしろ犬であるが、まあ、犬猫はよろしい。私が、棒を好きなのである。なにか私の心中に深い傷があって、その傷を埋めるために私自身気がつかないうちに棒を欲しているのかもしれないのだが、そのような心理学的な解釈はともかく、棒が好きなのである私は。好きなのである私は棒が。

 二度見直して書く。心理学的な講釈はともかくとして、私の子供らも棒が好きである。モップ、竹ぼうき、おもちゃの鯉のぼりのポール、木琴のバチ、えたいの知れない木の枝。とにかく、見つけたら手に持って、振り回している。なんとなく危なっかしくて私は取り上げる。すると怒る。好きであるらしい。

 そして棒は私も好きだ。雨の日など、電車の中でたたんだ傘を持っていると、不思議に落ち着く。傘の柄に手のひらを置いて、傘の先を靴のつま先の足指が入っていないところに当てる。ぐりぐりと押す。ぶらぶらと揺する。不思議に落ち着く。むしろ、私という人間が、これくらいの長さの棒を加えてはじめて完全な姿になるような感じさえする。もしかして、前世はそういう生き物だったりしたのだろうか。

 何が言いたいのか。つまり「私はレーザーポインタが嫌いだ」ということが言いたかったのである。職種の都合で、昔に比べ、学会とか研究会とか、大勢の前で話すということが少なくなってしまったのだが、それでも一年に数回、そういう機会がないではない。こういう場面において、いつのころからかレーザーポインタが使われるようになった。スクリーンに映し出された図やグラフを指し示すときに、テレビのリモコンのような装置を向けてスイッチを押すと、赤いレーザーの光の輪が灯る。これで観客に向けて図上の注目点を指し示すのだ。

 一般的傾向として、私はこういう新しい科学技術を用いた小道具は積極的に使うタチである。レーザーポインタも、普及し始めたときに大枚をはたいて一本買って持っているくらいなのだが、では何のことはない、好きではないか。実は、好きかと聞かれると好きだ。好きなのだが、この「マイポインタ」を使って何度かプレゼンテーションに臨んだあと、気がついたのだ。これも好きなのだが、どうしようもなく棒のほうがもっと好きなのだということに。

 棒はすてきである。会場に向けて話すとき、長い棒を持っているととてつもなく落ち着く。棒でスクリーン面をぱしぱし叩いたり、棒をぶんぶん振り上げたり振り下ろしたりしてスピード感を表現したり、手持ち無沙汰な手のひらを棒の柄の上に置いてぶらぶらさせたり、質問を受け付けるときに棒にもたれて立って、
「あー、話者はグロッキーなのでこれ以上質問されると暴れるかもしれませーん」
という感じを小ずるくかもし出してみたり。正直言って私は他人の前で話すことそのものが好きな人間なのだが、棒があるとさらに上手に場をコントロールできる感じがする。自分がとても偉くなった気がするのだ。棒はすてきである。

 この「棒好き」な感じは、私だけのものではないと思う。たぶん多かれ少なかれみんな持っている傾向ではないかと思っているのだがどうだろう。少なくとも子供らにはそれを感じるわけだ。ところが、最近あったある発表会で、私以外の十三人の話者が全部レーザーポインタを使っているのを見て、さすがに私も疑問を覚えた。もしかして私は少数派に転落したのではないかと。なにしろ、私が二番目に話したのに、私のあと誰もその棒に見向きもしなかったのである。

 レーザーより棒。だいたいにおいて私はいつもこの手の態度に対し冷笑的なことばっかり書いていたのではなかったか。「この手の態度」というのがどういう態度かというと、新しい技術より古い技術のほうが偉いとする態度である。プラスチックの食器よりも名工の焼いた陶器。炊飯ジャーよりかまど。インターネットよりも面と向かっての会話。CDよりレコード。養殖より天然もの。備長炭。源泉かけ流し。木のぬくもり。自然の叡智。ローテク。スローライフ。それなのにどうしたことか。なんで棒に限って古い技術がお気に入りで新しい技術になじめないのか。

 いやもう、棒のほうが偉いと主張するつもりはない。確かに、棒で直接指し示すほうが、レーザーで描いた丸印を追いかけるよりも観客の目にやさしいような気もするのだが、そういう「かまどで炊いたご飯のほうがおいしい」的なことを言いたいわけではなく、私が演者の場合、棒が落ち着く、と言っているだけなのだ。再度書くが聞き手の視点はそっちのけで、私が棒のことを好きなだけなのである。たとえば、レーザーが当たったところだけ光るのではなく、レーザーポインタのビームにそって棒状に光るような、ゲームやアニメのレーザー、ガンダムやスターウォーズに出てくる光るカタナのイメージだが、そういう光る棒がもしなんらかの方法で実用化されれば、レーザーを敬遠する理由が一つ減ると思う。ところが、たぶん私はこれでもダメだ。寄っかかって立ちたいのである。棒でコツコツ床を叩きたいのである。

 幸い、OHPがほぼ絶滅しプロジェクターが普通になった今でも、スクリーンを使う事実は変わらないわけで、「ロールスクリーンを引っぱりおろす棒」は発表の場から消えてはいない。壇上に立ってそのへんをごそごそ探すとかならずこの、端にプラスチックの鉤がついた長さ一メートルほどの棒があって嬉しい。しかし、当面棒はなくなりはしないとしても、使う人が少なくなってゆくにつれ、だんだんこれを使うのが恥ずかしいことになってゆくのではないかという危惧はある。棒を使うなんて野蛮人、と思われているような気がしてならないのである(そのように正鵠を射た感想を抱かれるのが恥ずかしいということである)。

 というわけで、とりあえずここにこう書いておいて、他の人も棒派にならないかという期待を抱いているのである。私は断固戦う。棒を使いつづける。だからお願い。ぼくをひとりにしないでください。


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