手帳に見る科学の宗教化

 大好評開催中の愛・地球博(愛知万博)の目玉の一つとして、シベリアの永久凍土から発見されたマンモスが展示され話題となっている。太古に滅んだ巨大な獣が、奇跡的な偶然により氷結したままの状態で発見され、日本まで運ばれて、このように一般に展示されている。これを可能にした科学技術と共に、やはり地球の歴史、自分がいま寄って立つこの時代はそれ自体独立して生まれたものではなく、はるか過去からの時間の流れの末、さまざまな出来事の結果としてようやく存在しているのだ、という新たな視点に圧倒される思いがする。と、もっともっとほめて書けば入場券の一枚くらい送られてくるのではないかしらと思ったりするがそんな卑しい心に幸せは訪れない。

 さて、このマンモスから得られる教訓としてもう一つ重要なものは、
「あなたも氷結した状態で一万八千年後に発見されることがあり得る」
であろう。そんなことあるもんかとあなたは思うかもしれないが、たとえば先日、あるスキー場で開催された花火大会の様子をテレビで見た。観客へのインタビューに「友達に花火と聞いてやってきたがまさか会場がスキー場だったとは」と答えたのは、素足にミニスカート姿の女の子である。少なくとも風邪は引かないかも、と暗い感想を抱きつつ、この人など、一万八千年後に発見される資格は十分あるのではないかと思う。

 なんだかわからないが、我々もいつ後世の好奇の目にさらされることになるかわからないのだ、という点だけは納得してもらえたに違いない。未来の考古学者に恥ずかしくないように、いつも備えを欠かさない習慣を持ちたいものである。いくら注意していても死んでしまっては同じではないか、という考えは正しくない。行儀よく氷づけになっていれば、もしかしてクローン再生してもらえるかもしれないのである。同じ氷づけになるにしても、なりかたというものがあると思う。

 しかし実際問題として、氷づけはもちろん、化石にでもなって後世に残ることができるとしたら、それはかなりの幸運(か不運かはわからないが)の結果である。化石として発見される生き物の数は、実際に生きていた数に比べひどく少ないのだから、さまざまな偶然の末、うまく条件がそろったものだけが、後世の考古学に材料を提供することができるのだろう。
 そして、このことは逆に、現在の考古学が、ごくわずかなサンプルから過去を推定しているに過ぎない、ということをも意味している。たまたま残ったわずかな遺物から全体を推測せざるを得ないわけで、時折とんでもなく間違った結論を出していても不思議はないのである。これは考古学だけではなく、天文学にも共通する宿命のようなもので、研究者は限られた資料でベストを尽くすしかない。

 と、こんなことを考えたのは、実は私が今使っている手帳が、一万八千年後に発見されると非常にいけないことになるのではないか、と思ったからである。手帳に私がメモした内容ではない。確かにこの手帳には旅先で思いついた雑文のアイデアなどといったことが書き留められており、一万八千年と言わず今日上司にのぞかれるだけでかなりいけないことになるのだが、そこではなく、この手帳における巻末、便利な単位換算表のところだ。ここがどうもよろしくない。

グラムキロトンガロンオンスポンドロングトンショートトン
グラム1015.42360.035270.0022100
キロトン135273.42204.630.98421.10231
ガロン0.0648010.002290.0001400
オンス28.350.00002437.51410.06250.000030.00003
ポンド453.590.0004570001610.000450.0005
ロングトン1.0160535839.5224011.12
ショートトン9071880.9071831999.620000.892861

 上は掲載されている表の一つをそのまま引き写したものである。「長さ」「面積」等とあるうち「質量」のものだ。とりあえず「−」や「0」に注目されたい。なんだこれは。なんなのだ。

 始めに断っておくと、そもそも私はこの手の単位換算表が苦手で、表の数字を掛ければいいのか割ればいいのか、いつも悩む。たとえばグラムからオンスに換算する場合、表の交点にある「0.03527」というのが換算定数なのはわかるが、1グラムが0.03527オンスなのか、それとも1オンスが0.03527グラムなのか。1オンスと1グラムのどちらが重いかさえ知っていれば解決する問題ではあるが、すぐわからなくなって考え込んでしまうのである。

 しかし、それは私の馬鹿さ加減、という話であり、今回の場合、問題が表のほうにもある。上の表は、実際に使おうとするととたんに困ったことになる。「−」というのはつまり数字が与えられていないわけだが「0」の場合、いったいどうすればいいのか。1グラムは0キロトンなのか。そんなことはないはずである。0.00002や0.00003のような数字にも、えも言われぬ不安を感じる。有効数字がいかにも少なそうで、怖くて使えない。

 あんまり責めても始まらない。結論めいた推測から書くならば、これはたぶん、表を作るときについうっかりしていて、エクセルで作った表をそのまま印刷に回すようなことをやってしまったものだろう。つまり「数字が六桁」という縛りでもって作られているように見えるのである(そして、999999よりも数字が大きくなるとオーバーフローの意味で「−」が記入されているのだろう)。オーバーフローはともかくとして小さい数字の扱いのほうは、絶対値としての数字に意味があるような場合、たとえば単位がすべて「円」というような場合に、それなりに意味がある記述法である。

 ただ、今回の場合はこの表の数値はつまり両単位の「比」なので、これではいけないのである。比として使う場合、有効数字は小数点以下何位ではなくて、数字が入っている所から何桁、でないと、計算の前後で数字の精度がひどく悪くなってしまう場合があるのだ。指数を使った表現で、
9.07188×105
6.25000×10-2
といった方法で書くべきなのである。6.25000の000は省略してはいけない。しかしまあ、なかなかパソコンではこうは表示できないし(エクセルでもコンピューターにおける伝統的な記述方法「6.25000E-02」を使っている)、2240は2.24000×103よりもわかりやすい。ケースバイケースで作るべきところを、まあその、うっかりしていたのだろう。

 それにしても、この表はあちこちうかつである。表のはしばしからそういう雰囲気を感じ取れるのだが、この表の原稿を作ったのは、自分ではこの表を使わない人なのかもしれない。たとえば、ガロンという単位が載っているが、これがわからない。そもそもガロンは質量ではなく体積ではなかったか。1ガロンの水か油の質量かとも思ったが、どうもそうでもないらしい(表によれば1ガロン=0.0648グラムらしいので)。もしかしてどこかに質量単位としての「いわゆるガロンとは別のガロン」があるのかもしれないが、表に載せるべき、メジャーな単位ではないと思いたい(※)。他にも、「キロトン」というのはトンの千倍ではなくどうやら「メートル法のトン」という意味だと思われるが、これは使いやすさのためには「ロングトン」「ショートトン」と並べておくべきである。そもそも大きい単位から小さい単位までの比が大きすぎるのである。たとえばグラムよりはキログラムがSI的にも正しいと思うがどうか。

 一万八千年後、私の体が所持品の手帳とともにシベリアから(いやどこでもよいが)発見される。状態は良好で、手帳は私の汚い字で書かれたメモはともかくとして、巻末の表は読み取れる状態である。ここに掲載された表を見て、後世の学者は断ずるかもしれない。
「この時代、有効数字に関する概念は曖昧で、意味を考えることなく先人の残した表をそのまま受け継ぐ、科学の宗教化が始まっていた。この換算表は実際には機能しない装飾品で、持ち物にこのような表が掲載されていることだけが重要だったのだろう」
 これには一言もない。我々が過去に対してやっていることと同じようなことかもしれないが、悔しいのである。どうも、未来と過去には本質的な不平等がある。

 かように、氷づけで残る遺物がごくわずかである以上、あなたや私の手帳一冊からこの世紀の日本の文化がすべて推測されてしまうようなことは決してないとはいえない。記入された雑文のアイデアはもうどうしようもないが(ないのか)、二一世紀が未来にバカにされずにすむように、せめて私は手帳の余白に科学的なことを書いておこうと思う。具体的には、ええと「E=mc2」とか、フェルマーの定理とか。いやだから、それが宗教化なんだってば。


※辞書にも、理科年表にも、有名な「ユニットマーケット」(http://www.unitmarket.jp/)にも情報がない。「『ガロン』という名前にこだわらずこれくらいの比率を持つ単位」ということでも、それらしいものを発見できなかった。本当に、これはなんだろう。
※…と書いていたら、指摘をうけました。ガロンと「グレーン」との混同ではないかということです。調べてみると、確かに比率からしてこれに違いありません(辞書にもユニットマーケットにもちゃんと掲載されています)。ちゃんと調べて書けよ私。
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