経験は死線を越えて

 まんがを読みながら私は考えた。「自分の体のことは自分が一番よくわかっている」と最初に言い出したのは誰なのか。誰なのかしら駆け抜けて行く私のメモリアル。

 メモリアルさておき、これは劇中、大怪我なり大病を患った登場人物が、いよいよ退場する前に言う言葉である。「お願いだから休んでいて、お医者様はもう少し休めばまた元気になれるって言っていたわ」とか「傷は浅いぞ、十キロ後退すれば野戦病院がある、生き残れるぞ、故郷に帰れるんだ」といった周囲の励ましを拒絶して上のように述べる。用法としては「よくわかっていて、これくらい大丈夫だ」ではなくて「わかっていて、もうダメだ」なのだ。そうして、最後の力を振り絞り、なにかヒントになることを言って息絶えるのである。

 しかし、論理的に考えると、これはおかしな発言かもしれない。経験者の言葉として「以前にもこれくらいの怪我をしたがそのときは大丈夫だった」という主張にはある程度の重みがあるわけだが、その反対はどうなのか。当たり前の話、「以前にもこれくらいの出血があってそのときはダメだった」などということはない。ダメだったらその人はそこで死んでいるはずだからである。死んだことなんか一度もないのにどうしてわかるのか。

 生きるの死ぬのは不穏当なので、もう少し気楽な例で考えると、たとえば自動車のガソリンがこれに似ている。自動車には燃料計というものがついていて、タンクにあとどれくらいガソリンが残っているかを運転手に知らせる仕組みになっている。ガソリン残量がいよいよゼロに近づくと、さらに念を入れ、燃料切れを警告するランプが点灯したりもする。ただ、こういった警告が出たからといって、すぐに燃料が切れるわけではない。警告ランプが点灯した時点でまだタンクには数リットル残っていて、最寄のガソリンスタンドにたどり着けるようになっているのだ。ところがここに謎がある。まだ大丈夫というが、本当のところ、どれくらい大丈夫なのか。

 自家用車が一台あるとしよう。私はこの車の持ち主なので、何度も燃料切れランプが灯るのを見たことがあり、また給油を繰り返しつつ乗っている。「自分のクルマのことは自分が一番よくわかっている」と言いたいところである。ところがそうではないのだ。実際のところ警告ランプがついてからどれだけ走れるか、実感としてはちっともわからない。限界ギリギリを試したことなどないからである。マニュアルから得た通り一遍の知識はあるが、そういう場所にはタテマエが書いてあるということは皆知っていて、今の場合知りたいのはその建前と本音の差なのだからどうにもしかたがない。

 実験してみようと思っても、なかなか簡単ではない。公道上でガス欠ということにでもなれば、追突事故などに遭わなくて済んだとしても、いかにも社会の迷惑である。燃料計の針がEを指しているのを見てなぜか「満タン」であると判断し走りつづけた結果、ついに路上(しかも環八)で車を動けなくさせてしまった人を私は知っているが、そのときは車の屋根に登って、そこで一思いに腹をかっさばいてお詫びしようと、いや、そんなことは思わなかったと思うが、比喩的にはそれくらいの迷惑行為を繰り広げたのではないかと思うのである。そのようなことを思うと、ついつい早めの給油を心がけてしまう。それでいいわけだが、悲しいかなそれではここ一番というとき、あとどれくらい走れるのかについてのカンが、いつまで経っても醸成されないのである。

 思い返してみよう。ウルトラマンにはカラータイマーというものがあって「自分の体のことは他人にもよくわかる」という状態になっていた。この特撮ヒーローは、地球上で活動を続けると胸のランプが青から赤の点滅に変わり、それでも放っておくと死ぬ、という設定になっている。これは恐ろしい。特に恐ろしいのは「あとどれくらいで点滅が終わるか」というのが、今ひとつよくわからないところである。私がウルトラマンだったら、ひとたび点滅が始まるやいても立ってもいられない。怪獣なんて適当にうっちゃっておいて、まず、エネルギーを補給しに走る。最寄のガソリンスタンドにストローを突き刺し、ちうと一気飲みする。いやウルトラマンはガソリンで動いているわけではないが。

 しかし、考えてみると、こういったデッドラインの持つ意味は、当然、状況により、人によって異なる。仕事上のデッドライン、たとえば出版の締め切りについて考えても、駆け出しのライターにとってのそれと、ベストセラー作家にとってのそれはまったく意味が異なるはずだ。端的には、締め切りくらいはきっちり守らなければ次の仕事などない人にとって、出版社の示す締め切りは絶対に踏み越えられない鉄壁だが、ある程度の地位を得、収入のある作家にとっては、場合によって「締め切りを破る」という実験が可能だからである。タテマエ上の締め切りの後ろに、真の締め切り、絶対の締め切り、といったものがあるとして、そのことがわかるのは、それなりの地位がある人に違いない。

 これと同じことがガソリンにも言える。ガス欠が許される状況下で普段から運転をしている人であれば、「本当の限界」というものをわきまえているはずなのである。たとえば、管理された状況下で運転をしているレーサーやテストドライバーなら、ガス欠はそれほど恐れないでよいし、実際に何度か遭遇するちょっとした面倒程度のことである気がする。むしろ、職業上の経験として実際に何度か遭遇する「べき」ものかもしれない。私にとってのガス欠と意味が異なるわけだ。ただ、一度経験しておくべき、というのはドライバーなら誰にとってもそうであるはずで、私もガソリン切れ警告ランプがつくたびに、どこか安全なところで一度ガス欠まで走らせてみて、経験を今後に生かしたいと思うものの、なかなかそのヒマも環境もない。

 そして、そういうことで言えば、ウルトラマンは、確か死んだからといって簡単に死なない存在ではなかったろうか。劇中のウルトラマンの生と死は「ガソリン」ほど軽くはないと思うが、何か、命が複数あって兄弟から分けてもらったりできるような気楽なシステムが採用されていた気がする。そんなバカなと思いつつも、あのような悲惨なカラータイマーに命を預けることができるのは、実際に何度か死んだことがあって限界を知っているからだ、というのは、それほどうがった見方でもない気がする。むしろ、ウルトラマンも子供の頃はムチャばっかりしてしょっちゅう死んでは父母を困らせていた等、あっておかしくないエピソードではないか。いずれにしても、ウルトラマンの体のことはウルトラマンが一番よくわかっているように思えるのである。


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