木星より永遠に

 いつものとおりですが、はじめに。あなたがこれを読んでいるということは、私はもうこの世にはいないということです。そのはずです。そしてもし、もしそうでなければ。なにかの手違いで、私が生きているうちにあなたがこれを読んでいるのなら、どうかお願いです。すぐにこのファイルを閉じて、忘れてください。なにしろ、とても恥ずかしいことが書いてあるので、生きている私は、それに耐えらないと思うのです。どうかよろしく。

 さて、これもいつものとおりですが、状況を説明します。私がこれを書いている今/ここは、2090年の8月、木星の衛星軌道基地《アガメムノンIII》の一室です。今、窓の外に、星光をさえぎって黒々と見えているのが《ミネルバ25》。あと数時間であの船は私を乗せ、基地を出港します。タンク船と邂逅のあと、資源小惑星探査のため、惑星間軌道を取ることになります。船からでは、私が必要とする強さの暗号化は望めないので、これは私からの最後の個人的な手紙ということになるでしょう。もちろん、無事帰還すれば(その可能性は高いです)その限りではありませんが、このメールが時限送信され、あなたがこれを読んでいるということは、つまり、無事帰還しなかった、ということですからね。

 ここまでを書いて、それからこれを受け取るべきあなたのことを考えると、私はいつもめまいがしそうになります。考えてみれば、あなたはもう、20歳になろうとしているのです。私にとっては、あなたはいつまでも別れたときの8歳の女の子で、もうそうではないのだ、ずっと昔からそうではないのだ、と考えるのは、私にとってはとても難しいことです。

 子供の頃、私には「カッちゃん」というボーイフレンドがいました。そういう名前の、気になる男の子がいたのですが、気持ちを打ち明けるでなく、小学校を最後に、別のクラスになってしまって、結局、どうということもありませんでした。しかし、その頃からずっと、あなたのお父さんと結婚する、ほとんど直前までずっと、この「カッちゃん」がいつも私の心に住んでいたような気がするのです。子供の頃の、古い写真のように、ときどき取り出して眺めるだけの記憶ではありません。今日着てゆく服を選ぶにも、カッちゃんはどう思うだろ、こんな格好じゃカッちゃんに笑われるな、と、いつも考えてしまう、そういう存在だったのです。それは、いつのまにか、生身の男性である「木村神人君」とはもはやまったく別の、何かになっていたのだと思います。

 恥ずかしいことを告白している気がします。つまり、あなたが生まれてからは、そしてあなたと別れてからは、たぶんあなたが、私の新しい「カッちゃん」になったという、そういうことなのかもしれない、と思ったのです。火星を飛び出してからずっと、大げさに言うならば、私はいつも、あなたのことを考えていました。星の海の中にぽっかりと浮かぶ軌道基地に勤務しながら、あなたのことを、私がこの世に唯一残した娘のことを考えては、私は一人ではない、娘がいるんだ、と考えつづけていたような。私には信じるべき何かが必要で、それはあなただったと思うのです。

 でも、それは本当にあなただったのでしょうか。辛い夜にあなたのことを考えて、あなたに励まされたと思ったのは、あれは結局は幻ではないのでしょうか。もっと言うならば、本当に、私には私を慕う愛らしい娘が一人いたのでしょうか。すべては私の記憶が産んだ、虚構に過ぎないのでは。

 そういう恐ろしい考えを振り払うように、私はあなたからの時々の手紙を読み返して、送ってくれる写真や映像を見ます。シフトの始まり、辛い朝、くたくたに疲れて、でもやらなければならない仕事があるときなど。そうして、私は考えるでしょう。今、あなたのことを考えているとき、いくつもの天文距離を越えて、光の速度をも超えて、私とあなたは心がつながっている、と。そして、私が死んでしまったら、そのときこそ、ついに私はいつもあなたと一緒にいられるのだと。

 ああ、これが。私が今書いたあれこれを心から信じられるならば、どんなに気持ちが楽になることか。実際、船のクルーの中には、神様を信じていて、毎日お祈りをしているひとがいます。でも、私はそうはできなかった。あなたのお祖父さんやお祖母さんがやっていたのをまねて、神棚や仏壇に手を合わせることがあったとしても、私にとってはそれは私の中の父や母の記憶に敬意を表しているだけで、それ以上の意味はなかったのです。

 あなたがこれを読んでいる今、私はたぶん死んでいるでしょう。私は、天国からあなたを見守ってはいません。いつもあなたのそばにはいません。私に語りかけるかもしれない、あなたの心の言葉を聞くこともありません。寂しいけれども、とても嫌な話だけれども、私にとっては、そして、まず間違いなく、本当の本当には、それが真実なのです。ちょうど、私の記憶の中のあなたのように。あんなにはっきりと励まされたことが、結局は弱くなった私の心が生み出した幻想に違いないように。

 強くあらねばなりません。これから始まる航海は、決して楽なものではありません。たぶん、私は何度もあなたのことを思い出して、そうして、乗り越えることでしょう。乗り越えなくて、どうしますか。母は強いのです。こんな母でも。

 これは遺書になるはずなのですが、真剣さが足りないのでしょうか。いつまで書いていてもまとまらないようです。私はよくない母親でした。こんな母を、慕ってくれて、励ましてくれてありがとう。私が好きだった、あなたのお父さんを、どうか大切にしてあげてください。いつかあなたがこしらえるかもしれない、あなたの子供にもよろしく。一人の人生は有限ですが、人のつながりは無限で、この宇宙、この世界は私にとっていいところでした。この航海の途中、私がどのような死に方をするとしても、この確信が揺らぐことは、いまさらないでしょう。

 そして、もしかして、あなたがこれを読むことになったのなら、お願いします。どうか、私のことをときどき思い出してください。一年に一度で構いません。私のことを、私の好きだった歌、私の好きだった絵のことを思い出してください。べつにあなたが思い出してくれないと恨みに思う、ということはないのですが、そうしていただけると、嬉しいです。そういう未来のことを考えると、今の私が嬉しくなります。それだけですが、でも、そういうものじゃない?

 では、お別れです。さようなら。愛するあなた。私の一部。せかいのすべて。さようなら。


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