絶対への渇望

「我が社の製品は絶対に安全です」
と、言ってみたいのだが、これはやっぱり言ってはいけないことなのだろうか。あなたが会社の社長なり品質管理部の部長だったとして、会社が一般消費者向けの製品を作っていたり、あるいはミスをするとそこら中に迷惑をかける業種(端的には、原発を想像されたい)である場合だ。こういうとき「絶対に安全です」と言っておいて実はそうではない場合と、そのへんを何となくアイマイにごまかしつつ案の定言わんこっちゃない事故が起こった場合、どちらのほうが罪が重くなるのか、特に差はないのであれば言ってしまったほうが簡単であると思うがどうか。

 とはいえ「訴状が届いていないのでコメントできない」のかわりに「そんなことで訴えるなんて日本中に自分のバカさかげんを広報しているようなものだ」と言ってしまっては、次の日から週刊誌や放送局の記者が自宅前にわんさと集まることになるのであり、やっぱりこのような言わずもがなのことは言わないほうがよいのである。ところが、好事魔多し、自分では言いたくなくてもお客様からこのように問われることはある。つまり「絶対安全と言い切れるのですか」ということである。

 できるだけ誠実に誠実に、ということを心がけた場合、絶対安全ですか、と聞かれてしまっては「絶対ということはないです人間のやることですから」と答えざるを得ない。しかし、人間そのように正直に答えてばかりでは株主利益も最大化されないのであって、こういう場合はやはり「製品の安全には万全を期しており、通常の使用においてはまず安全です」とか「通常想定される範囲内の事故については特別な危険がないよう配慮しております」等、ウスボンヤリとごまかしつつその場を切り抜けなければならない。たいへんに辛いことである。

 というようなことを考えている原発関係者がいたら怖いが、さて、これについて、面白い話を聞いたことがある。そもそも、どうして原発に安全を求めるのか、結局これは事故が起こったら放射性物質や放射線そのものが周囲に漏れ出し、そこにいる人々の健康に危険があるからだろう。放射線は人体に悪影響を及ぼすわけだが、通常、被曝量が多くなれはなるほど健康被害も大きくなると考えられている。被曝量に比例して特定の病気にかかる確率が増加する(確率的影響)類のものと、ある閾値を超えると急激に問題が発生する(確定的影響)類のものがあるとされているが、特に前者は、被曝量は少なければ少ないほど病気になりにくい、というのが通常の見解である。ところが、これが間違っている可能性について、考えている人がいる。ある程度の放射線は、むしろ浴びたほうが体によいというのだ。

 「体によい」というのは、つまり、放射線被曝量に応じていろいろな病気へのかかりやすさが変化するわけだが、被曝量がもっとも少ない状態よりも、ある程度高い状態のほうが総計として病気にかかりにくくなり、全体として期待できる寿命が伸びる、ということである。どうしてそんなことが起こり得るのか、ちょっと考えてもおかしい気がするが、ある程度の放射線は、むしろ体に「喝」を入れてかえって健康になる、というようなストーリーを考えているのかもしれない。乾布摩擦をすると風邪を引かない、というようなものだ。なんとなく「オレは鍛えてるから放射線くらい平気だ」というギャグを思い出す。

 この研究は、まともに取り組むと、なかなかタイヘンな仕事になるだろうということは想像できる。放射線被曝量が少ない人と、もっと少ない人の罹病率(のようなもの)を比較しなければならないからだ。「環境放射線がゼロになると生き物はシヌ」というような極端なことを言いたいわけではなくて、所詮「病気のかかりやすさがわずかに違う」程度の話だから、差はもともとわずかである。そして、よく考えると当然のことだが、統計上、わずかな差を観測するには、ものすごい数の実験動物による実験(あるいはものすごく多数の人間の疫学的調査)を実施しないといけない。だから、もしこれが正しいとしても、疑問の余地がほとんどない結果が出て、科学的知見にまで昇格するのはずっと先のことになるだろう。

 ただ、この論法自体について言えば、これは逆説的で、面白くて、ほとんど革命的な感じがする。というのは、これは「絶対安全と言い切れるんですか」という、消費者の立場に立てば実にもっともな質問に対する、他でちょっと見かけない解決法になりえるからである。言うまでもないことだが、人間の命と健康は、「他の人間の命と健康」をのぞく、何を犠牲にしても優先されなければならない。利便性も利益も、もっと言えば地球環境も資源も、生きていればこその話で、死んでしまってはなんにもならないのだ。だから「寿命はちょっと減りますがそのぶん便利に暮らせるのだから我慢してね」などとは絶対に言うことができない。自分で考えて選ぶならよいが、他人にそれを強制することはできない。

 それなのに、どうだろう。もし仮に「放射線はちょっとくらいなら体によい」ということが証明されたとすると、企業側は関係者への説明がずいぶん楽になるのである。「ちょっとなら体によい」と「少なければ少ないほどよい」の違いは大きい。後者の場合は、原理上どこかで利便性と寿命の兼ね合いを考えなければならなくなるからだ。今のところ「漏洩放射線量は環境放射能に比べて少ないから大丈夫」という論法が主に使われていると思うが、少なければ少ないほどよいとした場合、実はこれはある種のごまかしである。わずかとはいえ、リスクが増えていることには変わりないからだ。それが、あるレベル以下であればかえって健康になるとしたらどうか。「絶対安全」を求める無限の努力を、どこか適当なところで打ち切ることができるのである。この議論の逆転っぷりは恐ろしいほどだ。

 というわけで、利害関係者が多いのできっと上の研究は困難だといいつつも補助金がもらえて実施されるだろうと思うのだが(そしてそこが非常にうさんくさーいところだが)、放射線云々を脇に置くと、この論法はあらゆる会社のあらゆる製品に使えるわけではないが、かなり有用な戦術だと思うのである。原発のほかにも、高圧電線や携帯電話、家電製品等からの電磁波、さらにはタバコの煙やアスベストまたアメリカ産牛肉などもわからない。もしかしたら「ごく微量なら体にいい」かもしれないのだ。少なくともアルコールについては、ぜんぜん飲まないよりは少し飲んだほうが病気にかかりにくい、という研究が確かにある。

「絶対への渇望」といういやしがたいものへ、科学が一定の解答を与える可能性がある。そういう珍しい事例だと思う。もともとわずかな差のところを言っているので、否定するにせよ肯定するにせよ、証明が難しいというところも(企業戦略的には)実に便利である。などというのは冗談だが、こういうことを考えている人が、社長になってはいけないということだけは確かなのである。そして、自宅前にマスコミを集めるのは、近所迷惑なのでやめたほうがよい。母親も泣くのではないか。


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