紫電改における左と右

 仲間とテレビの天気予報を見ていて、そこで説明に使われていた図について、ひとしきり議論になったことがある。天気予報といっても、民放でやっている夕方のニュースショウの、気象予報士でもあるタレントを起用した、お天気よもやま話的なコーナーである。使われた図は、ここ数ヶ月の気温の変化を説明したものだった。この冬はなかなか寒い冬で、昨年12月は平年に比べずいぶん気温が低かった。今年に入ってからも1月はやや低く、しかし2月はちょっと暖かかった、と、ざっとこのような事情を示したグラフである。ところが、このグラフが変だった。三本並んだ棒グラフの、一番左が2月、真ん中が1月、右が12月、という順番になっていたのだ。

 なんだこれは、と私は仲間たちに言った。仲間うちの飲み会、居酒屋の席があったまってきたところであった。テレビ画面を指差して、私は演説する。普通、こういうグラフを作る場合、左から右に向けて時間が経過するように作るものである。これは道路の右側通行左側通行と同様に「本来どっちでもいいのだがいったんそっちに決まったら守るべきルール」というやつであり、科学論文に書くようなグラフはもちろん、交通事故死者数の推移だろうが内閣支持率だろうが、もちろんこんなへっぽこニュースショウだろうが、遵守すべきは変わらない。右が過去左が未来などというグラフは、作成が不可能ではないにしろ、著しく規格外なものであり、恐ろしい違和感と混乱を惹起するものである。

 私は嘆く。ニュースの枠で「アナゴ一本丸ごと天重夢盛り北海カニパスタ超名店の新名物ハヤシ感動カツも」をやらかすような、こんなニュースショウはまあよいとしよう。なにカツだって。いや、カツはさておき、気象予報士は何をやっているのか。そもそも気象予報士とは、気象庁が発表する複雑高度な気象データを適切に利用することで、防災等の場面における社会の混乱を未然に防ぐために定められた、そして、聞けば合格はなかなか困難と言われる国家試験によって選別された、優秀な技術者ではないのか。その気象予報士が監修するこのようなコーナーで、よりにもよって右が過去というグラフを作るとは、一体何を考えているのか。そう慨嘆するうちに、だんだん本当に腹が立ってくる。居酒屋のテーブルを空になったジョッキの底でごんごんと叩き、お代わりはどうしよう、あ、おじさんナマチュウおねがいしまーす、と気炎を上げる。

 いや待て、とそんな私をいさめたのは、隣にいた私の仲間である。名前を義重という。北海道生まれ三四歳、同い年の妻との間に娘が一人いる。そんなことはどうでもよい。義重は言った。いや待て。おれはもうそろそろビールはやめだ。焼酎の湯割がいい。それとだ。右が過去というのは、一定の合理性があるのではないか。これに対して私は、よかろうではおれも焼酎だ。さっきのビールはやめて、おじさんこの「神龍」ていう焼酎をボトルで、それとお湯、グラスは三つね、と頼んでおいて、その合理性とは何か、と尋ねた。

 では聞くが、と義重は言った。なぜ左が過去、右が未来と決まっている。私は即答する。なぜもへちまもない。こんなものは昔からそうだと決まっているのだ。いやさ、もちろん理由をこじつけられなくはあるまい。西欧の文章は、左から右へ書く。一部そうでない言語もあるし、古代においてはどちらから書いてもよい記述法もあったと聞く。しかし、それ以降は、おそらく右利きの人間が書きやすいようにと思われるが、右から左の順序はゆるぎないものになっていて、変えようがない。グラフを書くとして、過去未来の順序をこれに統一するのは、ごく自然なことだろう。

 義重は、ふ、と笑ったように見えた。だからお前はいつまで経っても兵庫県出身なのだ。なにを、と顔に血を上らせ、あ、おじさんありがとう、とお礼をして焼酎とグラスとお湯入りの魔法瓶と、結局注文が通ってしまっていた生ビールの中ジョッキを受け取った私は、はっ、と義重の笑いの理由に思い至った。そうか即ち。

 即ち、日本語があるではないか、と義重は言うのである。日本語においても、なるほど横書きの場合左から右だ。少なくとも戦後はそうだ。しかし、縦書きの場合は、この二一世紀に入ってなお、右から左の逆順に進んでゆくではないか。私は、自らのうかつさに歯噛みをする思いで、グラスにお湯割りを二つ作り、お先にどーぞ、と仲間達に配っておいて、うまいうまいと生ビールを飲んだ。

 なるほど、この日本においても、ほとんどの場合グラフは左が過去である。しかしながら、右から書く場合がないわけではない。もっとも端的には歴史年表、特に縦書きのそれについては、確かに右から左に時間が流れるがごとく、書いてある場合があるのではないか。さきほどの、テレビのグラフがどうであったか詳細はもはや思い出せないが、「12月」とタテに、確かに書いてあった気がするのである。アスパラのベーコン巻きはうまいのである。

 しかし義重。あ、おじさん、揚げ出し豆腐とホッケ追加ね。しかし義重。だからといって、何でも許されるわけではあるまいよ。よく言われるところの、なんと言うか、マスコミ表現。右肩上がりとか、右肩下がりというアレ、あれはグラフの右が未来という不文律があってこそではないのか。第三のビールの出荷量は右肩上がりで等と、平気でこんなコジャレた表現を使うやつばらこそ、このヤキトリの串の露としてやらねばならないところだが、どっちが未来だかあやふやになるとそれも困るではないか。

 義重は言った。だからやっぱりお前はいつまで経っても三児の父なのだ。なにを、とまたしても顔を紅潮させる私に、義重は続けて言った。この湯割りの湯はちょっとぬるいな。そして、右肩右肩というが、どっちがグラフの右肩なのだと。これに対して、トリカラにレモンかけていい、と私は聞いた。それから、それはほれ、グラフの右のほう、通常未来を示すほうの端ではないか。と、言ってから、はっ、と気がつく。どうしてこっちが右と言えるのだ。そもそもグラフにおいて肩ってなんだ。

 そのとおり、グラフを人間の体とみなした場合、こっちを向いて立っているグラフの、紙面の右の端はグラフ君にとって左の肩だ。通常右肩とされる部分はグラフの「向かって右の端」に過ぎないのである。とまたしても生ビールがうまかったが、考えてみれば、これがグラフに由来する表現でないとしても、「右肩上がり」「左肩上がり」「右肩下がり」「左肩下がり」の四パターン考える類似表現のうち、使われるのは「右肩上がり」と「右肩下がり」だけである。だとすれば、右肩はいらんではないか。「第三のビールの出荷量は上がっていて」と言えばいいではないか。違うか揚げ出し豆腐。

 義重を見ると、右肩を上げてこっちを見ている。ははあんと、だんだん酔っ払ってわけがわからなくなってきたが、とりあえず今日の結論としては、イシハラヨシズミ許すまじということでよろしいか、と聞くと、おじさんがホッケを持ってきたので、私はとても幸せになった。居酒屋というのは、すばらしいところである。


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