人生における無駄とはなにか

 すねとか、わきの下など生えている毛のことを「むだ毛」と呼ぶ言い方があって、なんだか面白い。美容上必要ない毛を、必要な毛(髪の毛や眉)と区別して無駄と表現しているのだと思うが、なんかこう、対象に対する憎しみのようなものが感じられる命名である。むだ毛は無駄なのだ。あるいは、処理する時間が無駄なのである。なにかこうばさっと切り捨てられた感じが心地よい。抵抗は無駄だ。ただちに手をあげてそこの毛を剃れ。

 というわけでむだ毛は無駄だが生えている。無駄かそうでないかを分けるのは文化的な強制力に過ぎず本来無駄な毛などないのだ等と考え始めるとややこしい話になるが、幸い毛には人権はなさそうなので無駄呼ばわりしても傷つく毛はいまい。私の体において一番無駄なのはというと、これはもう頬ひげ、あごひげなど顔に生えるひげだと思う。一般にはひげのことをむだ毛とは呼ばないと思うが、これはひげに関しては習慣的に伸ばしている人が一定割合いるからで、その他の大多数の人にとっては、ひげというものは無駄かそうでないかといえば存在自体無駄なむだひげではないか。私は今ひげを剃る習慣にしているが、仮に伸ばそうと思ったとしたら、そう決断した瞬間に無駄ではなくなるのだろう。同じ意味で、すねやわきの毛は私にとっては別に無駄ではない。有用でもない気がするけれども。

 さて、このむだひげについて困っていることが一つあるのだが、ひげが年々濃くなってゆくというのは、みんなそうなのだろうか。これは、三十代ももう半ばを過ぎたムクツけき男がこう言っているのだということに注意されたいが、この、あごや首や鼻の下に伸びてくるこのひげに関して、今なお、少しずつだが、年々濃くなっていっているような気がするのである。あるとき綺麗に剃ってから、次に剃りたくなるまでの間隔がだんだん短くなって、いまや一・五日に一回剃りたくなる、という程度まで短くなっている。

 一・五日に一回というのはどういうことか。どうして整数にならないのかというと、つまり、毎日剃るほどではないのだが、二日に一回だと二日目の夜にはたいへんみっともないヒゲヅラになるということである。私がひげ剃りをするのが朝ではなく、夜の入浴時に剃ることにしているからという面もあるとは思うが、この一・五というのはたいへんいやらしい間隔で、二日目の朝はまだ「昨日は剃らなかったけど大丈夫まだこれくらいなら」と思っている。ところが、その夕方になると耐えられなくなるのだ。鏡を見て、あじゃぱん、と思うのである。

 年々濃くなっているのだから、そういう傾向が続くとすれば、これはいずれ一日に一回、すなわち毎日剃らないといけない状態に私も成長するはずである。そうなれば、それはそれでしめたもので、この傾向がさらに進んで〇・五日に一回剃る必要があるとかそういうことにならない限り成長を楽しみに見守ればよい。いや、一・五日だってお構いなし、毎日剃ればそれでよいはずだが、必要以上に顔をあたっているいると、お肌が荒れてくるので、短いひげをあんまり頻繁には剃りたくはないのだ。まったくもう、無駄なむだひげである。

 ここで話はちょっと変わる。ひげ剃りのときには、顔に石鹸を塗ることになっている。塗らないとどういう悪いことがあるのかについて、私はあまり論理的な説明ができないのだが、とにかくそうすることになっていてこれももしかすると文化的な強制力というものかもしれない。石鹸といえば、女性用の安全かみそりで、刃のまわりに巨大な石鹸がついていてこれでもういちいちボディソープを塗らなくてよい、という製品があり、テレビのコマーシャルで見るたびに「なにか違う」という思いを新たにしているのだが、それを言えば男性用だって刃の枚数がやたらに増えたりローラーがついたり電動で細かな振動を与えたりガンダムのフィギュアがついてきたりなど、よくわかない領域で何かを続けていて決して人のことを言えない。

 それはよい。石鹸の話だ。私が普段、お風呂で体を洗うために使っているのは液体のボディソープだが、最近、通販で買った新しいポンプ、泡が出るポンプがうちのお風呂に入荷したと思われたい。これもどういう仕組みになっているのか、論理的な説明ができないのだが、いずれ中に小人さんがいて彼が筆みたいなブラシで一生懸命泡立てているとかそういう仕組みを内蔵しているものと思われる。要するに、普通にポンプを押すと、液体石鹸のかわりに泡がもこもこもこ、と出てきて、これで体を洗うのだ。いちいち泡立てなくてもよい、という触れ込みである。

 これについて思うのだ。石鹸の泡というのは、よく洗うためにはどうしても必要なものなのだろうか。つまり、石鹸が泡が立つほどごしごしとこすったからよく洗えていると言えるのであり、泡が体を洗っている、ないし泡を立てることを目的として体を洗っているわけではない、と思うのだがどうだろう。なにか表面積とか界面活性とかそういったような必然性があるような気もするが、石鹸から泡が立つのは結果であって目的ではない、少なくとも自分で泡立てることにはそれなりの意味がある、というふうには考えられないか。

 ところがあるとき気がついた。体はともかくとして、この泡が、ひげを剃るにはおそろしく有用なのである。もこもこもこと出てきた泡を、顔にいいかげんに塗りつけて、それから剃ればよい。ひげを剃るにあたってどうしても石鹸が必要なのかどうかわからない、と上で書いておいていいかげんなものだが、やっぱりひげのときの石鹸は十分泡が立っていたほうがいいと思うのだ。そうしていないと、ひげを剃ったときにたいへん痛い気がするのである。

 というわけで私は、おおむね三日に二回の割合で、お風呂場でもこもこもこと泡をつくってそれで顔を剃っている。無駄な時間だとは思うがそれが文化的な強制力だからしてしかたがないのである。あと気になるのは、ボディソープでひげを剃ってもいいのかどうかなのだが、今のところ悪いことは特に何も起きないまま、もう数年来こうしている。どうもヒゲの周辺には論理的でないことがいっぱいあって、どれ一つとってもうまく説明ができない。結果としてただの無駄話になってしまうのである。


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