火には平和を

 私はたばこを吸わない。だからまずは、私と同じようにたばこを吸わない人向けに書いていると思っていただきたいのだが、混みあったレストランで席の案内を待っているとき「喫煙席なら空いていますが」と言われることが多いのはどうしてか。ある経済学の本(※)に書いてあったことで、これには明確な答えがある。上のように言われると、このレストランはけしからん、禁煙席の設定が少なすぎる、と思ってしまうわけだが、真相はもう少し複雑だ。

 それは、レストラン側は私のような非喫煙者に「禁煙席はいっぱいです」とは言うが「喫煙席がいっぱいです」とは、言わないからである。禁煙席を希望して、禁煙席があいていた場合、そこにすんなり案内されて話がおしまいになる。「ちなみに喫煙席はいっぱいなんですけどね」などと言われることはない。非喫煙者は、たまたま禁煙席が満員のときだけその事実を知ることになって、憤りを覚えるのである。

 もちろん、本当に禁煙席が少なすぎる場合もあるだろう。店の効率から言うと、店内の禁煙席喫煙席の割合は統計的な客の喫煙率(もっと言えば喫煙席を望む割合)とぴったり一致しているのが望ましいわけだが、店の構造などからしてなかなかそうはいかない場合も多いと思われる。上は、つまりは「喫煙席なら空いています」と言われることがなにかの証拠にはならない、という程度のことに過ぎない。ただ、非喫煙者にとってはレストランでも喫茶店でもみどりの窓口でも「禁煙席がいっぱいです」と言われることのみ多く、その反対のことは決して起らないので、世界的に禁煙席が不足している、喫煙席は常に多すぎる、と誤って判断するのはやむを得ない。

 そして一方で、たばこを吸う人にとっては上の議論はすべて逆になるのだ。現実として、現在喫煙者はいまものすごく冷遇されていて、建物から吹きさらしの喫煙所に追い出されて寒そうにたばこを吸う姿を見るにつけ、いくらなんでももう少し人間らしく扱われる資格があるのではないか、とずっと思っている。そういう人にとって、唯一ほっとできるレストランで「禁煙席なら空いています」と言われたりすると、ちょっとかなりなことになると思うのだがどうだろう。喫煙席の設定が少ないとのうらみつらみは、私が禁煙席に関して感じたものよりも、ずっと深いに違いない。

 これは両者にとって不幸なことなので、無駄な摩擦を少なくするため、せめてレストランはきちんと「ほら、今喫煙席(禁煙席)はあんなにギュウギュウ詰めです。かわいそうですねえ。あなたはラッキーでしたねえ」等と報告すべきである。その点、JRの座席指定システム(特に駅にある指定席券売機)は偉い。最初に喫煙か禁煙かを聞いてそちらだけ表示するのではなく、各列車の喫煙席、禁煙席の座席状況をいっぺんに表示するしくみになっているのだ。本当のところ禁煙車両が多いのか少ないのか判断する上でこれはみどりの窓口よりもすぐれた点である。

 というふうに、喫煙者と非喫煙者はそれでなくてもいがみあう宿命になっているので、相手に何を感じても、おおむね五割引にしておいてちょうどよいくらいだろうと思っている。私なんて非喫煙者であることをいいことに、たばこ税なんて一本二万円くらいとっちゃえ、とか、この喫煙所邪魔だからとっちゃえ、居酒屋では灰皿は有料でお出ししますなんてことにしちゃえ等とむちゃなことばっかり考えつくのだが、同じ議論で酒税がうんと上がったら困るのは私である。あんまり自分の趣味じゃない趣味を持っている人に対してあれこれ言うのはやめといたほうがよい。

 ところが。ところがだ。理性ではちゃんと上のように思っている私が、どうしたことか、たばこに対する許容度について言えば、年々、はっきりと低下して行っているのを感じる。端的には、他人がたばこを吸っていることに対して、いわれのない怒りを覚えるようになってしまっているのだ。

 いや、今でも、たばこを吸っている「知人」に対しては、大丈夫、特に何も、否定的な感情は持っていない。同じテーブルで吸われても平気だし、健康への害を説いて禁煙を勧めることもしない。たばこの値上げや税金のことはわざわざ話題にしない。これは言いたいのを我慢しているというよりは、もう少し積極的に、言おうと思わないという感覚だと思う。ところがこれが、いったん知らない人が吸っているとなると、突如として、見ているだけでむかむかと不快になってくるのだ。なんだろう、と思う。いわれのないことだ、と思う。歳をとってへんくつになったのか私、と思う。しかしむかむかするのだ。なんとしたことだ。

 たとえばたばこの害、特に副流煙という、たばこを直接吸っていない近くの人に及ぼす害について、とかく言われることがあるのだが、だから嫌いなのではない、と思う。実際「副流煙にはまったく害はありません」ということになったとしても(そんなことはありそうにないが、たとえば「都市に住んでいる場合の自動車の排気ガスによる影響に比べて無視できます」というような結論にはなるかもしれない)、この感情はまったく改善しない気がする。そういうことではないのだ。たばこを吸うことで、本人が健康を害して、結局は健康保険を圧迫するとかそういうことがあるかもしれないが、それとも違う。問題は健康ではない。

 理由はつけられる。道ですれ違った人が火のついたたばこを持っていると、あれに当たると熱いぞ、という想像をついしてしまって、怖い。あれは小さな鉛筆削り用くらいのナイフを抜き身で持っているようなもので、これが罰せられるならあれも罰せられるべきだと、確かにちょっと思う。また、道ばたに捨てられている吸い殻についてはやっぱり寛容にはなれない。誰が拾うのか、捨てた奴じゃないんだよなと思うと「たばこ税二万円」に類するむちゃな提案があたまをもたげる。

 しかし、そういうものを越えた、なにか根源的な怒りのようなものを感じてしまうのはどうしたことかと思っているのである。なにしろ、最近は車同士、交差点ですれ違った向こうの運転席で人がたばこを吸っているのを見ても、なんだかむっとするのである。たいへん病的である。結局、非喫煙者と喫煙者は分かり合えないということかもしれないが、どちらかというと、私が通りすがりの喫煙者のことを良く知らないので何によらず寛容になれないという、理解のあるなしの問題のような気もする。簡単に怒ることなく、むしろ愛でもって、それこそ片手に愛片手にたばこという感じでもって、この問題を乗り越えて行くと、そう宣言したい。いわゆる、ラブ・アンド・ピースというやつである。


※「ランチタイムの経済学」/S・ランズバーグ/日経ビジネス文庫
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