へんなVサイン

「フレミングの左手の法則」というものを最初に学校で学んだとき、私はなんでこんなことを覚えなければならないのか、なんだか不思議だった。フレミングの左手の法則は、磁場中での電流が受ける力(あるいは運動する電荷の受ける力、ローレンツ力)の向きを覚えるための方法で、左手で親指を立てたへんなVサインを作って中指から順に「電磁力」と覚えるものだ。これが言葉の厳密な意味で「法則」と言えるのかどうか、今ふと疑問に思ったが、クラークの第三法則が法則ならこれだって法則だろう。

 一度見たら忘れない、面白い覚え方だとは思うのだが、これが電流、磁場、力の向きを得るための絶対的な方法かというと、実はけっこう、あいまいな部分が残されていると思う。要するにこれは「直交する電流と磁場があったとしたら、電流が受ける力はどちら向きか」という、二つの一つの問題に過ぎない。電流と磁場を東向きと北向きに置くと、力はその両方に垂直な方向、つまり上か下かどちらかに決まっていて、カンで答えても半分は正解する。二つに一つのどちらかが正解であるかを教えるのだから、けっこう、単純な話である。

 それなのに、フレミングの左手の法則ときたら、ちゃんと使おうと思ったら、特徴的な「へんなVサインの形」以外の部分で覚えておかなければならない項目が、けっこう多いのだ。たとえば、ちょっと思いついただけでも、
 ○左手だったっけ、右手だったっけ。
 ○それぞれの指の意味って、なんだっけ。
 ○電・磁・力と、どっちの指から数えるんだっけ。
というものがある。正しい答えのためには、この一つとしておろそかにできない。二つ以上いっぺんに間違うとかえって正解を得られることもあると思うが、なにかバシっとこのへんを解決し、決して間違わない覚え方を考えたほうがいいのではないか。ないか、と思いつつ、思いつかないので学生時代からずっと、今でも、必要になるたびに左手でへんなVサインを作ってはデン・ジ・リョクと数えているのである。

 たぶんこれはフレミングの責任ではなく、むしろフレミングは素晴らしい覚え方を考案した功労者で、要するにローレンツ力というものがもともと直感に反した、どっちだかすぐ忘れてしまう類の物事だということなのだろう。イオン化傾向とか炎色反応とかを思い出すといいと思うが、普通、教科書には事実だけが書いてあって、その覚え方というのは参考書に書いてあるものだったり、あるいは生徒が自分で工夫して作ったりするものだ。その意味で、左手の法則がちゃんと教科書に載っているという事実(いや、確か載ってたと思うのだ)こそ、「ローレンツ力はフレミングの左手の法則という覚え方がなければ絶対に覚えられない事柄である」ということをはっきりと示しているのかもしれない。

 だいたい、電磁気にはそういう物事が多い。コイルの巻き方と磁場の方向(右手を「サムアップ」のかたちにして覚えるアレ)もそうだが、さかのぼればどうしてこっちが正電荷でこっちがN極なのかということからして、恣意的だしそれぞれややこしい事情がある。恣意的なものがよってたかって恣意的な配置を取ると恣意的な方向に突如として力が生じる。これは電磁気の持っている本質的に意地悪な部分であり、これがなければモーターも発電機も動かないのだ、と言われてもやっぱり意地悪には違いないと思うがどうだろう。

 思い起こせば、力学の範囲では、こんなに恣意的なものはなにもなかった。作用反作用の法則の力の向きが互いに垂直だったり、力のベクトルを加算するときに5%の消費税を持っていかれたりするなんてことはないのだ。考えてみれば、万有引力なんて符合は一つだし実にまっすぐで気持ちがいい。栄えあれ力学。呪いあれ電磁気学。

 などと言いつつも、回転座標系が入ってくるころには力学も実にむつかしくなって、授業が「コリオリの力」に至る頃には力学なんかを一瞬でも友達だと思った私が馬鹿だったと思うわけだが、そういえばこれも「どっち向きの力が発生するのか迷いやすい」という意味では、ローレンツ力にちょっと似ている。ベクトルの外積が出てくるとわからなくなる、ということに違いない。

 いや外積はどうでもよい。要するに、この「どっちだったか忘れてしまう」というのは、我々の脳の構造に根ざした、本質的で回避不可能な事柄ではないかと思うのだ。現に、物理とまったく関係のない、日本語の意味というようなことに関しても同じことはある。「転石苔むさず」とか「情けは人のためならず」のような、ずっと使われてきた言葉の意味があるとき正反対になってしまう現象の一部は「どっちだったか忘れてしまう」というところに原因があるに違いない。なにも言葉を破壊しようと思っているわけではなくて、どうしてもどっちだか覚えられないのである。

 たとえば「役不足」というのもそうだ。この言葉の正しい意味は、辞書を引けばちゃんと載っているのだが、不足するのが「役」のほうだったか「役者の力量」のほうだったか、何度聞いてもすぐ忘れてしまう。仮になんのしがらみもなくこの言葉をぽんと出されて、どっちの意味がこの言葉にふさわしいかアンケートを取ってみたら、おそらく半々くらいになるのではないだろうか。だとすると、もうこれは最初から難しい概念で、他の覚え方がないとどっちだか分からなくなる類の言葉なのだと思う。

 上の議論を補強するために、さらに「オーバースペック」という例を挙げたい。これは「遅いパソコンにものすごく高速なハードディスクを繋いでも意味がない」というような状況に使われて、この場合はハードディスクが「オーバースペックである」と表現される。猫に小判はオーバースペックですよ、ということだが、役不足とかなり似た意味であることがわかる(猫に小判は役不足ですよ)。そして、これも使っていて実にややこしい、と思うのだ。スペックが余っているという言葉なのに、スペックが不足する場合にもつい使いたくなってしまう。

 たとえば「その例えは私の頭にはちょっとオーバースペックでえす」というような場合だ。なにか間違っている気もするが、意味はわかる。それに上の例において「猫」が私、「小判」が例えであると思うから間違っている気がするのであって「猫」が例えで「小判」が私とするなら、……いや待て、もう間違っている。その逆であって、あ、いや、それでいいのか。と、このように考えているとますますわからなくなってくるし説明もややこしくなる一方なので、たぶん私はこの問題を論じるには役不足であるということなのだと思われる。本当にわからなくなってきた。へんなVサインをくるくる回しながら今日はここまで。なお、一本足で休むピンクの鳥はフレミングではない。これは確かだ。


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