限りある子供たちへ

 素晴らしいボケは限りある資源である、と私は昔ここに書いたことがある。文章を「ボケ文章」と「ツッコミ文章」に分類して考えた場合、ウェブ等においては、その基本的性質によって、どうしてもツッコミ文章のほうが多くなるものである。なぜかというと、通常、ボケよりもツッコミのほうが頭がよく見えるため、他人の誤りに対して「ツッコミ」を入れる文章を書いて発表する、インセンティブが働くためだ。私も、変なニュースを見かけるたび、そこになかツッコミを入れたい、入れなければならないという、衝動と戦うのに苦労している。

 といっても、なに、へんな戦いはやめて大人しくテレビに対して一人でツッコんでおけばそれで我が家も平和なのだが、そういうふうに考えていたとしても、ツッコむに値する、素晴らしいボケというのは確かに少ない。これは「うまいボケをした人に与えられる報奨」というものがないためだと思われる。むしろ、不用意にツッコミを受けないよう、幾重にも防御線が張ってある文章を見かけることのみ多くて、そういうものは、読んでいてもなんだか疲れるものである。時には「これはボケ」あるいは「ボケでもしかたなし」と割り切って、ツッコミを受けても「てへへ」と笑って済ます、そういう勇気も必要なのではないか。

 さて話はかわる。子供はどうにも可愛いのだが、一つにはこれが、かれらが「ボケ上手」だからではないかという気がいつもしている。もちろん本人はボケとかツッコミとかそういうことはまったく考えていないと思うが、それだけに、上の防御線のようなものはないわけで、それがとても可愛い。特に、言い間違いは可愛いのである。たとえば、当時二歳(今は三歳)の息子の語彙に、通っている幼児クラスの「ことりぐみ」というものがあるのだが、かれはこれをこのように言っていた。

「ことぐりみ」

 どこが間違っているのか一瞬わからないと思うが、気がつくと可愛い。可愛くて何度も言い直してもらうのだ。ほかにもスパゲティのことを「スパベッピ」、アイスクリームのことを「アクミ」なんていうのもあった。

 ところが、やっぱりこれらも限りある資源であり、使えばなくなるものである。子供がいつまでも二歳であるわけではなく、三歳になった今、無念やかれもまともに「ことりぐみ」「アイスクリーム」等と発音するようになってしまっている。一つにはあまり可愛いので何度も言い直させるからだが、そのうえ最近では「なんだか自分がこれを言うとウケるが、それは自分が間違っているかららしい」と推論しているようにも見える。可愛い、と思っても言い直してくれなくなるので、限りある資源を大切にするためには、決してツッコんではならないし、何度も言わせるというのも、やめたほうがいい。等々書いていると、なんだか子供で遊んでいると思われてしまうが、どうせすぐ大きくなってしまうのだから、あと少しだけ、このへんの楽しみにおぼれさせてほしいのである。

 さて、最近なにかと話題の「不二家」である。いろいろあって、ここ数日ほど、不二家の社屋やら、工場やらが、ニュースを見ると必ず出てくるようになっているが、そこにある不二家のマークに、息子は敏感に反応している。これを読んでいる方にとっては、不二家のマークと言われても、すぐにはピンとは来ないのではないかと思うが、いや私がだいたいそうだったのだが、ペコちゃんではなく、横長の楕円の中に筆記体のFを図案化したマークが入っているものがあるのだ。Fの横棒の先に花が咲いているあれである。これを見て、息子が言う。

「あー、カントリマアメの、まーくだー」

 笑ってはいけない。ここで笑ってはいけないのである。カントリーマアムというのはうちの子供たちがとびきりひいきにしている手作り風クッキーの名前であり、一時期我が家ではどこに行くにもタッパーにこれを詰め込んで鞄の中に入れて持ち運んでいた。なにかというと「おなかすいた」と騒ぐ子供たちをなだめるためで、かさばらず軽量高カロリーという特性からうちではこれをレンバスと呼んでいたくらいのものである。カントリマアメ。なんでそうなるのかはわからない。

 そして、意識していなかったが、そう、カントリーマアムは不二家の製品なのだった。いまや、スーパーに行っても息子の好きなカントリマアメは買えない。撤去されてしまったからである。いろいろ思うところはあるが、これもまた、使えばなくなる類の資源だったということなのかもしれない等と思っている。


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