防御に集中 このエントリーを含むはてなブックマーク

 なんだかそればっかり書いているが、うちには今六歳を頭に四歳二歳と三人の子供がいる。いるだけならいいのだが、どうも私のことを「楽しい遊具」と思っているフシがあり、私がたとえば会社から帰るとどえらい勢いで飛び付いてくる。飛び付いてきて、引っぱったりつっついたり、馬乗りになったりよじ登ったり、蹴ったり叩いたり突き刺したりねじったりする。ものすごく大変である。これが全部子供ではなく美女だったらどんなに幸せかと思うが、そういえばうちには既に一人、美女がいるので大丈夫である。と書いておいたので晩ご飯のおかずはトンカツでお願いします。

 などという家庭内のかけひきはどうでもいいが、こうやって遊んでいて、子供に痛い目に合わされることが、やっぱりときどきはある。よくあるのは、たとえばしゃがんでいる子供に近づいて、いきなり向こうが立つ、というような状況である。子供に向けてこちらが覗き込んだまさにそのタイミングで、子供が後ろも見ずにすっくと立ち上がる。たまったものではない。あの頭の固いところで、こちらの繊細なアゴをガチンとやられるのである。低めのボールをフルスイングしてホームランする映像を想像してもらえるとよい。いや、岩を持ってきて卵の殻をくしゃっとたたきつぶす映像のほうがよいか。これを無慮十数回もやられた私が、煎餅等かたい食べ物をなぜまだ食べることができるのか、本当にわからない。おっそろしく硬くて痛いのである。

 なんだかんだ言ってもしょせん子供で、また向こうも私を痛めつけようと思ってやっているわけではない(遊んでいるだけである)。だから、頭から飛び掛ってこられてもこぶしで殴りにきても、たいていは大丈夫なのである。ところが、ふと気を抜いた、思ってもみない瞬間にガチンとやられると本気で痛い。これは「来るぞ」と思っていると痛くないのだが、思わぬ瞬間にぶつかってこられると痛いのだという、そういうことではないかと思っている。

 私は思うのだが、これは、集中力ということではないか。私は子供の攻撃力に対してふだん十分な防御力を発揮できるが、それはどちらかといえばアクティブな、集中していないと発揮できない類のものである。「装甲板」とか「よろい」のようなどっから来られても大丈夫な防御力ではなく「迎撃ミサイル」とか「バックラー」のような、防御側が「さあこい」と身構えていないと何の役にも立たない防御力ではないかというわけである。オーラを集中していないと防御できない、みたいな話と思ってもらえればよい。

 集中は大事である。だいたい、役に立つ発見発明は集中の中から現れる。風呂に入ってぼーっとしているときになされる発明というのはあまりない。風呂に入ってぼーっとしているときに金メダルを取ったオリンピック選手もあまりいないはずである。しかし、だからといって四六時中集中しているというのは無理な話であり、だいたい、ずっと集中しているというのはそれはすでに集中ではない。広くちらばって分布しているものを、ホウキかなにかで集めてくる。すると「集中」したところができるが、その他の場所は過疎になる。というより、どこかに過疎なところができるから、一方で集中することができるのである。定義からして、そういうものではないだろうか。

 しかし、うちには子供がいるという事実は、ずっと変わらない。ある時間が来ると子供がいなくなるわけではなくて、特に休みの日など、朝起きてから夜寝るまで、私の周囲に子供がいないことなどあり得ない。下手をすれば寝ている間でも、カカトを腹にめり込ませたり頭を腹にめり込ませたりされるのである。腹ばっかりだが、寝ているときの腹というのは無防備で危ない。内臓が大変なことになる。

 つまり、このままでは大変だ。昔の剣豪は、寝ているときでも集中を保ち、弟子がいつ斬りかかってきても切り返すことができたそうだが、そのような達人になる前に私のような人間は腹にカカトをめり込まされてナニすると思う。どうすればいいのか。家にいる間中集中していなければいけないのか。

 もちろんそうであって、そのぶん、会社でぼーっとすればよいということなのだろう。聞け、妻よ。男はいったん家に帰ると、三人の敵がいる。たいへんなので、ご褒美として、晩ご飯のおかずはトンカツにして欲しいと思うのである。ほら、子供たちだって好きだしさ、トンカツ。


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