雑文サイトはこうして終わる このエントリーを含むはてなブックマーク

 などと、べつに最終回ではないので安心していただきたいが、まずは前回に続いて、煙草の話である。

 喫煙者に対して「煙草をやめていれば今頃家が建っている」ということを言う人への、もっともな反論として「では煙草を吸っていないあなたがなぜ家を建てていないのだ」というものがある。考えてみると確かにそうであって、これは一考に価する問題である。というのは、身の回りに、喫煙者とそうでない人がいて、喫煙者は煙草代という定常的な出費材料を持っていて、非喫煙者はそれに相当するものがない。それなのに、喫煙者がお金に困っているように見えないのは、なぜだろうというものである。

 一つには、煙草代が結局たいした支出ではないから、というものがあるかもしれない。高くなったとはいえ、煙草は一箱数百円のものであり、一日一箱吸うとしても一年で一〇万円くらいのものである。一生涯で約五百万円、すごい額のようだが、これは掛け算のマジックであり、駅から遠くて通勤に使っているバスが一区間長いとか、その程度の差が生みうる要因ではあるのだ。誤差範囲と言ってもいいかもしれない。

 しかしもう一つ、もう少し説得力のありそうな話として「使い切り理論」というものを今回考えてみたのだが、どうだろうか。

 これはつまり、一ヶ月の小遣いがある額あったとして、必ずその人はその月にそれを使い切ると考える、そういう話である。ここで本論に入る前に、一つ注意したい。それは「小遣い」という言葉で何を指すかが人によって異なる、それはもう、ものすごく大きく異なる、ということで、たとえば昼食代を含むか含まないか、交通費はどうか、実家にお歳暮を送るのは小遣いかどうか、散髪はどう考えるか、など、ボーダーライン上の無数の出費があって、それをどう扱っているかは人により家庭により大違いであると思われる。

 一つの例として、ある友人の話として「毎日おやつにアンパン一個とお茶を買う、それが唯一の小遣い」という話を聞いたことがある。すごい話だと思うが、ただ、これは「アンパン代をその家では小遣いと呼んでいる」と考えることもできる。その人が使うその他のお金がゼロということはありえないので、それは家計から「小遣い」以外の名目で支出されている(この家では「小遣い」とは呼ばない)、ということだろう。本も買うしインターネットにつながるパソコンも持っているし、もちろん散髪もするし友人と飲みに行ったりもするはずだが、それらに使ったお金は「小遣い」ではないと分類しているわけである。そういう考え方の違いが幅として現れるので、だから、ちょくちょく目にする「サラリーマンの小遣いの平均」というのは、おのずからあまり意味のないデータになっている。

 説明が長くなったが、というわけで、ここでは「小遣い」を「その人が使い道を自由に選べて誰からも文句を言われないお金」というふうに定義したい。もし煙草を吸うとしたらそれがその中に含まれるわけだが、実は「定義したい」というほど厳密な話ではない。可処分所得、と言ってもいいかもしれないが、もう少し、あいまいなものである。ともかく、小遣い二万円があったとして、その人は、心の中でそれを家計とは別計算にする。余ったからといってそれを家計に還元したりはしない(たとえ一時ためておいたとしても、あとで結局自分の好きに使う)、そういうお金である。

 こういうお金があったとして、毎月なんとなく余らせて、たまってゆくだけの状態がありえないのかというと、それはあるだろう。好きなことを好きなだけしているが、お金を使うほどのことはないので、無目的に貯め込んでいるという状態である。ただ、一般にはこれは「鉛筆を投げたら立った」と同じくらいめったにない状態であり、普通は、それはもう、自発的に対称性が破れるように自然には、そんなことはない。その代わりに、あるとき、その人に「趣味」ができるものではないかと思うのである。

 趣味とはなにか。これもいろいろな定義があると思うが、私はこれを「余暇のすべて、小遣いのすべてをつぎ込んでも足りないもの」というふうに定義したい。たとえば、何でもいいが、その人は自宅の部屋の一室に鉄道のジオラマを造っているとする。この趣味はその人にとって強烈に楽しくて、本当は仕事などせず一日ここにこもっていたい。もしもお金があれば、いくらでもここにつぎ込んで後悔しない。現実には仕事も行かなければならないし、たまには散髪に行ってすっきりしようというのも人情で、実際にどこかで折り合いをつけている(このあたりのバランスを趣味側に大きく振った人のことをたぶん「オタク」と呼ぶのではないかと思う)。しかしまあ、ある月の小遣いがたまたま五千円余ったら、それでもう一両客車を買い足そう、と思うわけである。

 こういう人は、煙草を吸っていようが、吸っていまいが、長い間に貯まるお金は同じである。すなわち、収入から小遣いを引いて、生活費を引いたものが貯金であり、あるとき煙草をやめても、それで貯金が増えるわけではない。鉄道模型に使うお金が増えるだけである。つまりこういうわけで、趣味を持つ人にとって、煙草を吸おうが吸うまいが、貯まるお金は変わらないのだ、と私は言いたいわけである。

 私は鉄道模型なんてやらないぞ、と思う人は多いだろうが、だいたい、趣味とはこういう性質を持つものではないだろうか。「ディズニーランドに行きたい」だとか「新しい鞄が欲しい」だとか、人によって違うだろうが、その人にとって最も楽しいことが、月の小遣いを全部使っても足りないものである限り、かならず小遣いは使い切られる。というより「今月は小遣いがピンチだからこの本を買うのはやめとこう」と考えたりする、ごく普通の消費行動(というか、消費しない行動)について考えると、逆説的だが、これがまさに、小遣いを使い切るということなのである。なぜならば、もしこの人が煙草をやめ、結果として小遣いが余っていた場合、その本は買われていて、結局、小遣いは使い切られているわけだから。

 余談だが、その意味で「アンパン代が私の小遣い」という人は、その点で実は本当に偉いのではないかと思う。「小遣いは自分の好きなことに使うお金なので余っても家計には戻さない」というのは、よく批判される役所の予算制度(余らせると次の年度に削られるので無理やり使い切るような)そのものであって、それこそが「煙草代で家が建たない」という原因であるからだ。たとえば本代を無制限に支出していたら何にもならないが、給料から引き落としで財形貯蓄などを行い、自由裁量で使える部分を少なくすることは、貯金の極意である。

 さて、以上はお金の話であるが、時間についても同じことが言えると、私は思うのだ。

「一日たった五分でこんなに痩せる」というようなキャッチフレーズはよく目にする。一日五分間、経済を勉強するだけで同僚に比べてこんなに差がつくとか、そういう話である。確かにそう思えるし、自分の生活を振り返ってみて、一日わずか五分が捻出できないほど、キチキチの生活は正直送っていない。というより、よくぼーっと暇な状態になったり漫画を読んで笑っていたりする。であれば、一日五分、なんとかなるのではないだろうか。

 なんともならないと思うのである。上の論理をそのまま繰り返すことになるが、本当に何もすることがなく、毎日退屈している人というのは確かにいると思う。しかし、いったんその人が空き部屋に鉄道模型を作り始めたら、その人にとって、暇な時間というものはそもそもなくなると思うのだ。

 平日は仕事をしている。食事をしたり、風呂に入ったり、家族と話したりする時間もちゃんとある。そういう日常やらなければならない仕事を全部やって、その残りが、模型と向き合う時間であるわけだが、その「一日五分」という新しい習慣が奪ってゆくのは「日常やらなければならない仕事をやっている退屈な時間」では、つまりないわけである。「その残り、模型と向き合える貴重な時間」から五分間を奪ってゆく、という話なのだ。

 つまりこれが「一日五分」が長続きしない理由ではないかと思う。一日五分の新習慣が戦う相手は、退屈な日常ではなく、その人のもっとも楽しい時間で、だから新習慣を身につけるためには、それが楽しい時間を一日五分、削ってもなお、価値あるものでなければならない。その人にとってもっとも大切な時間を五分削って価値があるような作業はそんなにない。よほど強い意志を持つか、その新たな「一日五分」がもとの趣味よりも楽しい場合でない限り、自分にとって楽しいことを、していたいと思うものではないだろうか。

 さて、私にとって、長い間このサイトは「残りの時間すべて」を使い切る趣味だった。まったく、ここをはじめてから、退屈するということはついぞなくなった。文章を実際に書いていないときでも、何を書くか考えるということで、十分幸せだったのだから、幸せな趣味だと言えるだろう。結婚しても、就職しても、子供が生まれても、一日のうち、やらなければならないことをすべて終えたあとの残り時間はつねにいくらかはあり、その時間を傾けて書けばよかったのだ。だから続けてこれたのではないかと思う。それより楽しいことがない限り、残り時間は常にあるものなのだ。

 そしてこれは逆に、ほかに一つでも、残り時間のすべてをささげてなお足りない趣味があれば、容易に立場が逆転する、ということをも意味しているのである。特に雑文を書くような、こうしたことを続けるには、これが第一の趣味でなければならない気がする。いくらでも時間がかけられて、またどこで終わりということが特にないからだ。この性質はそのまま、もしこれが第二の趣味になってしまえば、それは、第一の趣味にかける時間を削る、仕事などと同じ、人生にとっての邪魔者になってしまうということを意味する。

 以上を言い換えて、まとめとしよう。ある人の、雑文なりブログなどの更新ペースが落ちたとして、その理由には二つある。一つは仕事が忙しくなって「残りの時間」が減った場合。そしてもう一つは、他にもっと楽しい趣味を見つけて「残りの時間」をそれに使っている場合である。前者は目の前の忙しい仕事が終われば、また戻ってきてくれるかもしれない。しかし、残念ながら、後者の例は決して珍しいものではない、という気がする。私がどうであるかは別にして、本当に、そう思うのである。


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