蜻蛉と再会する このエントリーを含むはてなブックマーク

 日本に同じような起源を持つ高校がどれだけあるのか、それはわからない。しかし少なくとも私の通った高校は、江戸時代の藩校からその精神を受け継ぐ学校であるとのことで、その意味では歴史は古い。ただ、江戸時代あるいは藩校といってもかつてここに存在していたのは水戸や会津のような大藩ではなくて、確か一万石程度の小さな藩である。藩校の規模もおそらくそれなりではなかったかと想像するが、現にその頃から受け継いでいるものとしては、おそらくその精神だけではなかったかと思う。硯ひとつ見せてもらったことはないからである。

 その反動ではないと思うが、その精神についてはやかましく言われた。その藩校の、あるいは藩自体の教育方針、あるいはモットーとして、
「蜻蛉魂」
 というものを標榜していたのである。蜻蛉というのはここではセイレイと読むが、なんのことはないつまりトンボのことである。昆虫のトンボだ。赤とんぼとかトンボ鉛筆とかトンボ学生服やなにかのトンボだ。複眼でヤゴが幼虫で英語だとドラゴンフライのトンボであり、竹竿の先みたいな場所を見るとどうしても一度止まってみたくなる不思議な虫のことである。あるいは目の前で指をくるくるさせると取れるとか、石を二つ紐で結んで投げ上げると絡まって落ちてくるとか、そういう伝説があるトンボだ。ときどきつながって飛んでいたりもする。書き並べてみると愛されている虫だということはよくわかるが、しかしそれはそれとして、教育方針としてなぜトンボなのか。トンボから我々はなにを学べばよいのか。わからないのだが少なくともこの高校ではその校章までがトンボをかたどったものであり、高校の「高」の字をトンボの胴体に見立ててアレンジしたデザインになっていたのである。我々は朝礼のたびに整列しトンボを見上げて校歌を歌っていたわけだ。

 ではなぜトンボなのか。論理的に考えて「蜻蛉魂」という言葉とその由来だけを与えられ、意味は教えない、などという教育方針を高校が取るわけがない、とあなたも思うだろうが私も思う。もちろんそのはずなのだが、これが、どうしても思い出せない。実は、ときの校長から蜻蛉魂というのは長い歴史を持つもので云々、という話はそれこそ何度も聞いたもので、よく覚えているのだが、その「蜻蛉魂」というのはなにか、という話になると、さっぱり思い出せないのである。

 いや、聞いたのかも知れない。聞いた上で、つまらないので覚えていないのかもしれない。考えてみるとひどい話だが、少なくとも、
「おおっ、そうだったのか、これはぜひ覚えておかなくっちゃ。そしてみんなに話してやらなくちゃ」
 と思うほど面白い話ではなかったのだろう、との想像はできる。もしそういうものだったら覚えているだろうからで、私は、自分で言うとすごく悲しい気分になるが、こういう話のタネになりそうなことだったらいつまでも執拗に覚えているということについては人後に落ちない自信がある。そういう人間だからである。

 と、そういうようなバックグラウンドがあった上で、卒業以来二十年近くの馬齢を重ねてきたと思われたい。その間、一度として「なぜ蜻蛉なのか」ということを考えたこともなかったのでせっかくの高校の教育はあまり効果がなかったと思われるが、ともかく、テレビのクイズ番組で、こんな問題を見たのである。
「戦国時代、武将の使う鎧かぶとの中にトンボがあしらってある場合があった。これはトンボのある性質を武士としての規範として称揚したからであるが、ではその性質とはなにか」
 私は思った。わあこれだ、と。

 見ていたのは民放のクイズ番組なので、当然ながら問題と答えの間に「答えはコマーシャルの後」がある。その間に私は考えた。この問題はやはり「蜻蛉魂」のことだろう。違うかも知れないが、言ってはなんだがトンボのごときの武士道への関わり方が二種類もあるとは思えないので、おそらくそうに違いない。とすると、この問題にはテレビで取り上げあげる程度には興味深い答えが用意されていることになるが、それを私は聞いておきながら忘れてしまったことになる。これはむしろチャンスと言うべきかもしれない。もちろんチャンスだ。今までずっと疑問に思っていたことを(気になってはいたが、疑問にまではなっていなかったことを、というべきか)、向こうから教えてくれるというのだから。テレビ様、このアホウに教えてやってください。

 見た。教えてもらった。わかった答えがこれである。
「トンボは空中で前進するが後退しない。この性質のため」
 うわあっ。ええっとなんていうか、そうなんですかこれ。そうだったんですか。

 わかったところで疑問はすぐさま沸いてくる。まず思うのは「本当にトンボは空中で後退しないのか」というものである。たとえば竿の先に止まるときなど空中でホバリングしているところは見る気がするが、「後退しない」というのはあれか。自然に対する虚心でかつ正確な観察によるものか。また、他の昆虫の中でトンボをとりわけ取り上げるからには、少なくとも「他の昆虫はすべて後退する」という前提がなければならないが、こっちは本当なのか。確か「ホバリングできる鳥はハチドリだけ」という豆知識を聞いたことがあるが、では無理して虫を使わなくても、日本にすむ鳥なら何だっていいのでは。

 そしてもう一つ。「後退しない」というのは、そんなに大事なことか。いや、武士として後退しないことが大事というのは、なんとなくわからないでもない。さすがの武士でも戦略的に後退することがないわけではないだろうが、少なくとも戦場の一兵士の心がけとして「決して後退しない」というのは精強さの現れとして褒められるべきだという気がする。しかし、これを現代の高校生への教育方針として採用する場合、ではどのように応用すればいいのか。ひたすら前進して、その結果八甲田山やら二百三高地やらインパールで痛い目にあってそろそろ、それではいかん、そればっかりでは世界はわたっていけん、ということを学習してしかるべきではないのか。虫みたいにひたすら前進を続けた結果についていったい校長は責任を取ってくれるというのか。

 そこで私は理解をした。だから「蜻蛉魂」の具体的内容について高校では何にも教えてくれなかったのだ。違うかもしれないし、蜻蛉魂自体、上のテレビでの解説と違っている可能性もやはりある。しかし、後退してばかりの私の人生をかんがみるに、もう少し高校でこのことを教えてくれていれば、バランスがとれてちょうどよかったのかもしれない、などと思ったりもするのである。


※追記。あとから指摘されて思い出しましたが、私の母校ではちゃんと蜻蛉魂の内容について指導しています。私が覚えていなかっただけです。もしかして「蜻蛉」=「秋津」=「日本国」ということであり、いわゆる「大和魂」の別の表現なのではないかというのが今私の中での有力な説です。
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