紙の恩寵

 よく考えてみたら紙というものはたいへん偉い存在で、その恩というのはなかなか簡単に書き表すことはできない。その恩、紙のありがたみということで言うと、無くて困る状況でまず思いつくのはたいていトイレの中ではないかと思うが、ええとその、そういう尾籠な話はさておくとして、それ以外の場所においても、紙は必要不可欠な存在である。たとえばそうだな、メモをとったり漢字を練習したりするのに困る。

 しかるに最近、紙は迫害されている。ペーパレス化の流れのことである。私が今籍を置いているところの職場においても、以前は何をするにも紙の書類を回していたのが、今はネット上にあるデータ的なものを回覧している。十年くらい前に私が誰かに訊かれていたら、いやそんなことあるまいよ、と言っていたと思う。なんだかんだ言って十年後も二十年後も我々は、結局ハンコを集めた紙の書類をお隣へおとなりへって回して仕事をしているよ。だってハンコとか書類とか好きなんだよ我々は、と自信たっぷりに言い切っていたと思うが、そんなことなかった。たまにまだ「印刷しないと不安」という人はいたりするが、それでも仕事のメインなところは紙抜きで進んでいるし、紙ならぬ得体の知れない電子データを回覧すること自体は、誰も何とも思っていないようだ。

 ということは、もしかして本やまんがも、そのうちペーパレスになるのだろうか。これも、三年くらい前は私もそんなことは信じていなかった。電子書籍って、いやそんなことあるまいよ、なんだかんだ言って十年後も二十年後も我々は、結局紙に印刷して端っこのところをノリで止めた本を読んで楽しんでいるよ。だって本をぱらぱらめくったりマクラにして昼寝をするのが好きなんだよ我々は、と自信たっぷりに言っていたと思うが、そんなことないのかもしれない。もう今でもかなり電子書籍というものが一般的になっているし、自分が紙で持っている本をわざわざバラしてスキャンしてデジタルデータに変換する人もいる。もしかして、新作の小説もまんがも専用端末を使って読む世界が、このすぐあとに待っていたりするのではないだろうか。

 そうなると困る。だいたい「ペーパレス」と言われて一番傷ついているのは紙本人であり、いや、ここは紙本紙と言うべきかもしれないが、本紙であり、それはたとえば「大西レス化」と学校なり職場なりで言われたときに私がどう思うかを想像してもらえるとありがたいが、まあ、もう行きたくはなくなる。あるとき社長方針により大西を電子で代替することとなって、それでもニコニコいつも通り仕事ができるものだろうか。いやできない。私ができても紙はできない。

 とたいへん勝手なことを書いたが、とにかく紙がないと困る。いやだからトイレの話は忘れて欲しいが、何もかも紙ではなく、デジタルで再生可能で検索可能なデータとして蓄えられるようになっていったとしたら。漢字練習も筆算も、ちょっと本末転倒な気もするが、アイパッドみたいなタブレットの上に小学生が練習するようになったら、いよいよ困ると思うのである。紙はいらない、紙は時代遅れ、紙は環境破壊等いろいろ言われてすっかりいやになった紙が、ある日我々と我が身を見限ったとして、世をはかなんでぱったり学校に出て来なくなったとして、困るのはだれか。石か。はさみか。

 そう。つまり、じゃんけんで、はさみと石が困ると言っているのである。

 これは困る。これでじゃんけんというのは、微妙なパワーバランスの上に成り立っているゲームである。まず紙ははさみに弱い。そのはさみは石に強い。そして石は紙に弱い。だから、そのうち紙が突然いなくなると、はさみが勝てる相手はもう誰もいなくなり、一方で石の行き過ぎをいさめる相手はいなくなる。残ったはさみと石では勝敗は見えている。そんな中、座して死を待つことをいさぎよしとしないはさみの勇者たちが鍛え上げた刃を振りかざして石に挑むが、やはりこれは鉄板に生卵が挑むようなむなしい戦いにすぎない。一部「気」の力で刃を強化することにより見事石をまっぷたつに斬った真の勇者ばさみのうわさも流れてくるものの、所詮はさみははさみ、たちまち全面的に戦線が崩壊し石が全土を占領したその石だけの世界において、はさみはむなしくそのしかばねを荒野にさらすことになる。

 思えば、紙はじゃんけんにおける癒し系存在だった。上の表現でわかるように、他の手とは違い、紙は他を破壊しない。敵を叩き折る石、相手を切り刻むはさみとは違い、紙は包むだけの存在で、その包容の優しさによって敵に勝利する希有な存在だったのだ。発音だって「チョキっ」「グーっ」というトゲトゲしい二人とは違って「ぱあっ」という、そう、たとえて言えば花を摘んでいた少女がふとあなたに気づき、目をあげると、手の中の花束に負けないほどの可憐さで、にっこりと微笑んだような、そんなやさしい音だ。失って初めてわかる。紙とは、三つの手の中で、もっともいなくなってはいけない存在だったのだ。そういえば日本語で神と紙が同じ音なのは、これは何かもっともな理由があるのではないか。よくわからないが。

 とはいえ紙はなくなってゆくし、一方でじゃんけんは維持しなければならないので、何か紙の代わりに導入する必要があると思うが、代わりに我々は何を使えばいいのか。アイパッドは包めないし切れないし、スマホでは弁当を包むこともできないし、電子マネーなどせいぜい電車同士で相互利用しておけばよいので、まったく想像もつかないが、たとえば、
「ねえ大西君、そういうことだからさ。今日から紙の代わりに頼むよ。な」
 と部長あたりがいきなり言い出すこと、これだけは本当に全力で阻止しなければならない。もしもそうなったら、明日から全国の小中学校で私ははさみなり石なりと戦わねばならないが、はたしてはさみに勝てるだろうか。いや、はさみに勝つ必要はないが、石に勝てるだろうか。やさしく抱きしめようとした瞬間、あのがんこさで知られる石の奴がガツンとあごにぶつかってきたとしたら、果たしてそれは勝ったと言えるか。おもわずうずくまった私に、全国の小中学生が「なんだよ大西のヤツ使えねえな。石に負けてんじゃねえよそれがお前の仕事だろ?」と私のことをさんざんなじるのではないか。そうならないように、今から石にだけは勝てるようにしておく必要がある。

 というわけで、なるべく紙のその他の用途については考えないようにしながら、この雑文は終わる。だってほら、紙幅がもうないからね?


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